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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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三日目の朝、女中頭が着物を一枚持ってきた。
「奥様の寸法が分かりませんでしたから、あたしの若い頃のを直したんですよ。呉服屋が来るまでの間に合わせですけど」
藍の、地味な着物だった。袖が、千歳の手首をちゃんと隠した。女中頭はお初という名で、若い女中は文というのだと、着替えを手伝われながら知った。文は帯を結びながら、千歳の右手を三度盗み見て、三度目にお初に「文」と止められた。
「今日、有明の方がいらっしゃるんでしょう」
文が小声で言った。
「旦那様が、広間に全員を集めろって。何をなさるおつもりなんでしょうね」
千歳は答えなかった。
午後、門の外で人力車が二台止まった。
千歳は広間の窓からそれを見た。先に降りたのは藤乃で、衿を正し、髪を整えてから、後ろの人力車を振り返る。降りてきたのは梢だった。
梢は泣いていなかった。明るい色の着物で、髪を流行の形に結い、門柱を見上げて、笑った。
千歳は窓から離れた。
広間には、人が集められていた。白髪の家令。お初。文は落ち着きなく袖をいじっている。運転手は戸口の脇に、帽子を持って立っていた。
玲司は暖炉の前の椅子に座っている。
「柘植」
家令が懐中時計を見て、頷いた。柘植というのだ、と千歳は思った。
「お通ししろ。全員、ここにいろ。権田もだ」
運転手が帽子を握り直した。
千歳は玲司の斜め後ろに立った。座れとは言われていない。
「御堂様。このたびは、お詫びのしようもございません」
藤乃は広間の入り口で深く頭を下げた。整った言葉だった。千歳は、その声を聞くと、膝が勝手に畳を探してしまう。ここは絨毯だ。膝をつく場所がない。
「本物の梢を連れて参りました。姉は家の都合で、一時、代わりを」
藤乃は顔を上げた。
「白鳥夫人から伺いました。御堂様が、姉を追い返しもせず、奥に置いてくださっていると。それならばと、梢も、ようやく」
梢が藤乃の後ろから進み出て、玲司に向かって頭を下げた。顔を上げたとき、もう笑っていた。
「お姉さまが、勝手に行ってしまって。あたし、病で寝ていて、何も知らなかったの。御堂様が、こんなにお若い方だとも、伺っていなくて」
三日前、襤の向こうで泣いていた声だ。嫌よ、あんな人のところへ嫁ぐなんて。
千歳は梢を見なかった。見ると、何かを言ってしまいそうだった。
「梢は、母方に旧家の血を引く娘でございます」
藤乃は言った。
「こちらは、商家の娘の子で。御堂様の奥に置くには、いささか」
玲司は何も言わなかった。
藤乃は、その沈黙を、聞き入れられたと取ったようだった。千歳に向き直り、声を少し低くした。
「千歳。もう結構です。戻りなさい」
戻る。有明の屋敷の、三畳の女中部屋。釜の底の冷や飯。夜明け前の土間。
千歳の足は、それでも動かなかった。
三日前に温かい椀を持ったときの手の感じが、まだ残っていた。
梢が近づいてきた。
「お姉さま」
人前の声だ。甘くて、柔らかい。
「御堂様は、お姉さまの手を、まだご覧になっていないんでしょう?」
右の袖をつかまれた。千歳が引く前に、梢は布を巻いた手を引き出して、玲司のほうへ突き出した。
「この手を見ても、そう仰るの?」
布の結び目に、梢の指がかかっている。千歳は手を引こうとした。
「……旦那様」
初めて、その言葉が口から出た。止めてほしいのか、見ないでほしいのか、自分でも分からなかった。
「どちらが本物かは、私が決める」
玲司が立った。
梢の手が止まった。玲司は梢を見ず、千歳の右手を取った。梢の指が、自然に離れた。
布の結び目に、玲司の指がかかる。
解いていく。一巻き、二巻き。白い布が絨毯に落ちた。
千歳の右手の甲が、灯りの下に出た。赤く引きつれた痕。十年、袖の中にしまってきたものだ。
玲司はその手を、持ち上げた。
お初が、小さく息をのんだ。
広間の、全員の目が、その手に集まっているのが分かった。千歳は目を閉じたかった。閉じなかった。玲司の手が、乾いていて、熱かったからだ。
「私の妻はこの人だ」
玲司は、使用人たちのほうを向いて言った。柘植と、お初と、文と、権田に向かって。
「覚えておけ」
それから、藤乃を見た。
「有明の方々は、帰られよ」
藤乃の口元が、一度開いて、閉じた。
梢が何か言いかけた。藤乃がその袖を引いた。
梢は引かれながら、千歳の横を通った。人前の顔のまま、唇だけが動いた。
「調子に乗らないで」
柘植が懐中時計を見て、戸口へ歩き出した。
藤乃は千歳のそばを通るとき、足を止めた。顔は前を向いたままだ。声だけが、千歳の耳に落ちた。
「あの離れに何がいるか、知ってからでも、戻るのは遅くないわよ」
人力車が二台、門を出ていくのを、千歳は窓から見なかった。玲司の手が、まだ離れなかった。
離したのは、門が閉まる音がしてからだった。
玲司は何も言わず、落ちた布を拾い、千歳の左手に握らせた。どうしろとは言わなかった。
「お初。奥様に茶を」
言い置いて、書斎のほうへ行ってしまった。
お初が茶を持ってきた。文が、千歳の右手を、今度は隠さずに見た。
「奥様。その手、痛いんですか」
「いいえ。もう、何も」
文は頷いて、それから、なぜだか笑った。
「文」
と、またお初に止められた。
千歳は茶を飲んだ。右手で椀を持った。布のない手は、椀の熱をそのまま伝えてきた。
夜になって、千歳は窓を開けた。
雨は降っていなかった。庭は暗く、湿った土の匂いがする。母屋の電灯が庭の手前まで届いていて、その先は、見えない。
右手の甲が、夜気に触れている。布は、鏡台の上に畳んで置いた。巻き直さなかった。
庭の奥に、灯りが見えた。
黄色い、小さな灯りだ。電灯ではない。行灯の色だ。障子に、四角く映っている。
離れだ。
あの離れに何がいるか。藤乃の声が戻ってきた。嫌よ、夜になると離れに灯りがつくんでしょう、と梢が泣いた声も。
灯りは動かない。じっと、そこにある。
庭の手前に、梅の木が並んでいた。もう花は終わっている。いちばん奥の一本だけ、幹の片側が黒かった。焦げたように、黒い。
千歳は窓枠に手をかけ、身を乗り出した。
灯りが、消えた。
ふっと、障子が暗くなる。こちらを見たかのように。
背後で、障子の開く音がした。
「離れには近づくな」
コメント
1件
うわあ、第3話、静かな緊迫感がすごかったです……。「私の妻はこの人だ」——玲司さんが引きつれた手を掲げて宣言する場面、布を解く一巻き一巻きが重くて、息を止めて読んでしまいました。藤乃の「あの離れに何がいるか知ってからでも」の捨て台詞と、最後にふっと消える灯り。世界観の裏側がちらついて、めちゃくちゃ続きが気になります。設定の厚みがじわじわ効いてくるいい話ですね。