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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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夜明け前に、体が起きた。
千歳は布団の上に座って、障子の白さを見た。まだ暗い。有明の屋敷なら、土間の水を汲みに出る時刻だ。
何もしなくていい、と言われている。
それでも手が、何かを拭きたがる。昨夜は袖にしまって戻った。今朝は、しまえなかった。
廊下に出て、階段を下りた。台所は一階の奥だと、お初に聞いている。土間に桶があり、雑巾が干してあった。千歳はそれを一枚取って、水を汲み、絞った。
二階の廊下から始めた。板の廊下だ。膝をついて、端から端へ。
拭いていると、落ち着いた。右手の痕が雑巾の水で冷えて、昨日まで巻いていた布の蒸れが抜けていく。
廊下の端まで来たとき、足音が止まった。
「奥様」
柘植だった。懐から時計を出し、一度見て、戻した。
「奥様のなさることではございません」
千歳は雑巾を持ったまま、膝をついたまま、柘植を見上げた。言われると思っていた。言われたら、はい、と言って下がるつもりだった。
口から出たのは、違う言葉だった。
「何か、させてください」
柘植は答えなかった。
時計を見て、戻して、それから廊下の奥へ去った。叱られもしなかった。千歳は雑巾を桶に戻し、絞って、台所に返した。
「あら、奥様。もう起きなすったんですか」
台所で、お初が火を起こしていた。千歳の濡れた手を見て、何も聞かなかった。代わりに、湯呟みに茶を注いで、土間の上がり口に置いた。
「熱いですよ」
千歳は座って、茶を飲んだ。
「旦那様は七時に朝食でございます。それまでは、台所に誰も来ません。奥様がここにいらしたことは、あたしは見ませんでしたよ」
お初は膳の上の湯呟みを指で数えた。一つしかないのに、数えた。
「お初さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「なんにもしてませんよ」
廊下から、どたどたと足音がして、戸口で何かにつまずく音がした。文だった。
「お初さん、魚屋が――あ、奥様」
文は千歳を見た。それから千歳の右手を見て、昨日と同じように、少し笑った。
「おはようございます、奥様。魚屋が、表に来てます。それでね、魚屋が言うには」
「文」
お初が止めた。文は口を閉じて、魚屋のほうへ走っていった。
朝食は七時だ。
千歳は昨夜と同じ、向かいの椅子に座る。言われる前に座ってしまい、座ってから、言われていないことに気づいて、立ちかけた。
「座れ」
玲司は新聞を畳みながら言った。
膳が来た。温かい。千歳は右手で箸を取った。袖から出た手の甲は、雑巾の水で赤くなっている。痕の赤さとは違う、荒れた赤さだ。
玲司の目が、その手に止まった。
一度だけだ。それから、自分の膳に戻った。何も言わなかった。
食べ終えるまで、二人とも口をきかなかった。千歳は味噌汁の椀を両手で持って、今日は喉が詰まらずに飲めた。
「今日は会社に出る」
玲司は立ちながら言った。
「来い」
廊下に出て、玲司は母屋の中を歩いた。千歳はその後ろをついていく。広間、食堂、書斎の前、客間、二階の廊下、千歳の部屋の前。
「母屋はどこでも」
玲司は窓の前で足を止めた。庭が見える。梅の木。その奥の、離れ。
「離れだけは」
それだけ言って、階段を下りた。玄関で柘植が外套を渡し、権田が戸を開け、自動車の音が遠くなった。
千歳は窓の前に残った。朝の離れは、灯りがない。障子は白く、ただの古い建物に見えた。
「奥様。旦那様が」
お初が、小さな壺を持ってきた。
「これを、奥様に、と」
千歳は受け取った。白い陶の壺で、蓋を開けると、薬の匂いがする。軟膏だ。
「手に、お塗りなさいまし」
「旦那様が、これを」
「朝、出がけに。それだけ言って、乗っていっちまいました」
お初は、それ以上は言わなかった。
千歳は壺を両手で持つ。熱い湯呟みを持つときのように。
荒れた手を見た人は、十年、いない。藤乃は痕を見た。梢も痕を見た。荒れているところは、誰も見ていない。
千歳は蓋を閉めて、壺を袍に入れる。塗るのは、あとにした。
午後、台所に下りると、お初が野菜を刻んでいる。千歳は袖をたくし上げかけた。
「奥様」
お初は包丁を止めずに言った。
「柘植様に見つかると、あたしが叱られますよ」
「でも」
「針をお持ちなさいまし。旦那様の足袋が三足、ほころびてます。奥の仕事は、それでございますよ」
お初は針箱を顎で示した。千歳は針箱を持って、縁側に出た。
足袋のほころびを縫う。針を持つのは、梢の着物の裾を直すときばかりだった。自分のものを縫ったことは、十年のあいだ、一度もない。これは玲司のものだ。自分のものでもない。それでも、縫いながら、手が落ち着いていた。
文が庭から戻ってきて、千歳の隣に座り、膝を抱える。
「奥様。聞きました? 魚屋の話」
「いいえ」
「有明さんのお屋敷、掛けを断られたんですって。魚屋が、もう払ってもらえないからって。お屋敷の奥様が、それはもう怒って――」
「文」
台所からお初の声がする。文は首をすくめ、それでも、声を小さくして続けた。
「あたし、奥様には、言っておいたほうがいいと思うんです」
千歳は針を止める。
「旦那様の、前の婚約者さまのこと」
庭の奥で、梅の木の葉が揺れている。
「ご実家は、華族さまだったそうです。それが、この家にいらして、三日でお帰りになったんです。離れを見て」
文は離れのほうを見ない。わざと見ないようにしているのが分かる。
千歳は、足袋を膝に置いた。
「文ちゃん」
「はい」
「その方は、離れで、何を見たの」
文は口を開けて、閉じた。聞かれると思っていなかった顔だった。
「見た、っていうか」
文の声が、さらに小さくなる。
「逃げたんですよ。夜に、女の人の声がするって」
コメント
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読了しました。第4話、静かな緊張感がずっと続いていて気が抜けませんでした。 特に引っかかったのは、誰も千歳に「離れの真実」を教えない構造ですね。文が口を滑らせかけて、お初に止められる。でも「逃げた」「女の人の声」——その断片だけで、離れに何かがいる匂いが強烈に漂ってくる。 玲司が軟膏を置いていくシーン、良かったです。言葉にしない気遣いが、かえって重みを持つ。荒れた手を十年ぶりに見てもらえた、という千歳の内省に胸が詰まりました。 次が気になる。離れの声の正体、そして千歳自身の右手の痕の話もまだ伏せられたままですよね。続きを楽しみにしています。