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M_Yuzu
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阿部は読んでいた本を傍に置き、ぼんやりと宙を見つめた。
壁にかかった時計に目をやる。すでに時間は深夜一時を回っていた。
このところ岩本は、帰宅が遅かった。阿部が寝た頃に帰ってきて、阿部が仕事に行く頃にはまだ寝ている。そんなすれ違いの生活が二週間ほど続いていた。
仕事だから仕方ない。そう思ってはいるが、話もできず一人で食事をしていると、さすがに淋しさが募る。
今までも何ヶ月も会えないことはあった。それでもその時は、会える日を楽しみにできた。会ったら何を話そうか。何をしようか。そんなことを考えて、日々を乗り越えられた。
が、今は少し違う。一緒に暮らしているのに、話もできない。すぐそこに寝顔があるのに、抱きしめることもキスをすることもなく、ただ隣で眠るだけ。
(…一緒に住んでて淋しいとかあるんだなあ…)
阿部はひとつため息をついて、腰を上げた。
(もう寝よ)
自分も明日は仕事がある。諦めも肝心だ、と彼は考えた。
寝室に行ってベッドに潜り込もうとした時、枕元に畳んであった、岩本のパジャマがふと目に留まった。そっと持ち上げて、胸に抱えてみる。顔を埋めると、柔軟剤の香りに混じって、岩本の匂いがほのかにした。
「…っは、変態みたいじゃん」
阿部は自虐して苦笑する。しかし、パジャマを元の場所に戻すことも出来ず、ぎゅっと目を瞑って、そのままベッドに潜り込んだ。
(ひかる…)
じきにまたスケジュールも変わるだろう。そうしたら、『おかえり』『ただいま』と言い合って、一緒に食事をして、二人の時間をゆるりと過ごすことができる。待っていれば、そういう日は必ず戻ってくる。
分かっている。
それでも——
(…話したいなあ…)
何だか急に胸に込み上げるものがあった。
鼻の奥がツンとして、涙腺が緩む。
泣きそうになるのを堪えて、阿部はパジャマをかき抱いた。
固く目を閉じる。
眠りに落ちるまでに、岩本が帰ってくるといいな、と彼は願った。
午前4時。
静かに玄関ドアが開いた。
岩本は、なるべく音を立てないように部屋に入る。
リビングは当然だが電気が消えていて、静寂に包まれていた。
荷物を定位置に置いて、シャツの襟を開けながらバスルームに向かう。
服を脱ぎ捨て、シャワーのコックを捻る。
熱いシャワーが頭上から降り注ぎ、岩本はほっと一息ついた。
しばらく阿部と話していないな、とぼんやりと思う。
このニ週間、とにかく仕事が忙しかった。深夜に帰宅して、シャワーを浴び、コンビニ弁当で簡単に食事を済ませたら寝る。その繰り返し。
岩本が帰宅する頃には、阿部は寝ている。仕方ない。
阿部にだって仕事がある。起きて待っていて欲しいなんてわがままは言えなかった。
一緒に暮らす前は数ヶ月会えないなんてザラだったじゃないか、と岩本は自分に言い聞かせた。だからあと少し辛抱するんだ、と。
しかし、数ヶ月会えなかった頃より、今の方が格段に淋しさを感じるのだ。
寝室に行けば手の届く距離にいるのに、触れることも話しかけることもできない。
(何の罰ゲームだ、これ)
身体の泡を洗い流しながら、ため息をつく。
ふと、こういう生活が続いた場合の未来を想像する。
阿部が自分に興味を失い、別の誰かに癒しを求める。そんな結末に行き着いて、岩本は背筋が寒くなるのを感じた。
(………いやいや、ないない)
最悪の結末を慌てて頭から追い出す。これ以上の悪い想像をしないようにして、岩本はバスルームを後にした。
下着姿でリビングに戻り、ソファに腰掛ける。コンビニで買ってきた弁当を一瞥したものの、何となく食べる気がせず、彼はすぐ席を立ち寝室へ向かった。
もう寝よう。
身体より脳が疲れている気がした。
ベッドに近づき、パジャマを探す。が、畳んでおいた場所にそれは無かった。
記憶違いだったか、と辺りを見渡す。ない。
布団の下かも、と思い立ち、そうっと布団をめくってみる。
「………」
岩本はただ立ち尽くした。
阿部が、彼のパジャマを胸に抱いて眠っていた。
「なんだ…お前が持ってたか」
岩本はぽつりと口にする。
胸が締め付けられるような切なさと、愛しさが湧き上がった。泣きそうになるのを堪えて、ベッドに静かに身体を横たえた。
「…淋しかった?」
阿部の寝顔を見つめて、問いかける。
「…俺も淋しい」
そっと頬に触れると、阿部がうっすら目を開けた。
「………ひかる…?」
ぼんやりした目で岩本を見つめる。
「ごめん、起こして」
起こすつもりはなかったのに、つい触れてしまった。阿部は寝ぼけているのか、ゆっくり手を伸ばす。
「…ゆめ?」
呟く阿部に、岩本はふっと笑った。伸びてきた手を掴み、自分の頬に触れさせる。
「いるよ」
阿部は、目の前の岩本が現実のものだとわかると、嬉しそうに微笑んだ。
「ひかる」
彼は岩本に抱きつこうとする。そして自分がまだパジャマを抱いているのに気づいた。
「あ…」
裸の岩本とパジャマを交互に見る。顔がじわじわと熱くなった。
「ごめん…」
抱きしめていたパジャマを、おずおずと岩本に押し付ける。
「…引いた?」
「引く?なんで?」
「だって…変態っぽいじゃん…」
顔を赤くして阿部は視線を逸らす。岩本はクスリと笑って、ほんのり赤く染まった耳に触れた。
「めちゃくちゃ可愛いと思ったけど?」
囁かれて、阿部は照れ隠しのように岩本にしがみついた。縋ってくる阿部を抱き返し、その体温を感じると、胸がいっぱいになった。
「淋しかった」
思わず抑えていた感情が溢れ出る。
「話したかった」
ずっと我慢していたのに、一度言葉にしてしまうと、もう歯止めがきかなかった。
「抱きしめたかった」
「うん」
「すぐそこにいるのに、遠くて、不安だった」
「うん」
阿部は、感情を吐露する岩本に穏やかに相槌を打ちながら、彼の背に腕を回し、優しくさすった。
「俺も、おんなじ」
そして小さく言う。顔を上げると岩本も彼を見た。
「ひかるが恋しかったよ」
岩本は照れくさそうに笑う。
「だからパジャマ抱きしめてたの?」
そして、からかうように言った。
「それはっ——」
「嬉しい」
蒸し返され、言い訳しようとする阿部を遮って、岩本は素直に伝えた。
「俺のこと必要だって思ってくれて」
阿部が自分の存在を求めてくれたことが嬉しかった。阿部はちょっと面食らったような顔をして口籠る。
「…必要に、決まってる」
一瞬の間の後、彼は言った。
「俺の精神安定剤なんだから」
岩本がいない世界なんてもう考えられない。彼は阿部にとって、誰よりも大切な人間だった。
岩本はその言葉に相好を崩す。
「俺も阿部がいるから頑張れる」
ぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた。いろいろな悪い想像が、心から消えていくのが分わかった。
たった二週間。
そう思えば短い期間なのかもしれない。
けれど、二人にとっては随分と長かった。
「話せて良かった。今日話せなかったら、俺、明日は泣いちゃってたかも」
冗談めかして阿部は言う。
けれどちょっと本気だった。
二人はしばらく無言のまま抱き合う。
「…そういえば、言ってなかった」
心地良い沈黙を破って、阿部が切り出した。
不思議そうに岩本は阿部を見る。
「おかえり、ひかる」
阿部は言って微笑んだ。その笑顔があまりにも眩しくて、愛しくて、岩本は泣き笑いのような顔で、彼の頬を撫でる。
「ただいま、阿部」
そして穏やかに返した。
阿部は安心したように目を閉じる。
岩本の胸に頬を寄せ、その鼓動を聞く。
規則正しく響く音が、今夜は何より心地よかった。
「…安心したら、眠くなってきた」
「うん、俺も…」
阿部の言葉に岩本もあくびまじりに言う。
二人は抱き合ったまま目を閉じて、互いの呼吸に耳を澄ませた。
静かなそれを聞きながら、二人は緩やかに眠りに落ちていく。
幸せな夜明け前だった。
コメント
4件
💚が💛のパジャマを抱きしめちゃうあたりから「あぁーーーー🥹」ってなって最後やっと2人が会えて寂しいを伝え合って…ってもう🥹🥹🥹
うわあ…この回、すごく良かったです。 すれ違いの生活でどちらも同じように淋しさを抱えてて、でも我慢してる感じが切なかった。 特に阿部がパジャマを抱きしめて寝てるところ、岩本が見つけたときの「なんだ…お前が持ってたか」って呟きが優しすぎる…。 最後の「おかえり」「ただいま」、やっと交わした会話が染みました。 淋しさを伝え合えたのが本当に良かったなあ。