テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
■第7話「甘さを知らない町」
「甘いって、どんな味なんだろうな」
青年は小さくつぶやいた。
テーブルの上には無味のスープと、塩だけで味付けされたパン。生きていくには困らない。だが、何も残らない。
それが、彼のいつもの食事だった。
ふと目を閉じて、次に目を開けたとき、景色が変わっていた。
空は曖昧で、朝焼けのようで夕暮れのようでもある。
大きな書棚が地面から生え、空に向かって曲線を描くように立ち並んでいる。遠くではカップが空中を漂い、どこかでスプーンが回る音がしていた。
どこにも「人の気配」がないのに、誰かが書いたレシピのにおいだけが空気に満ちている。
ここは現実ではない。だが夢とも言い切れない。
青年──カズトは、二十代半ば。
クリーム色のコックコートの袖をまくり、首には長く使い古されたクロスのバンダナ。髪はやや長く、後ろで軽く結ばれている。瞳は落ち着いた茶色だが、どこか飢えたような光が宿っていた。
「甘味がわからない料理人とは、皮肉ですね」
目の前に現れたのは、またしてもブックレイだった。
今回は、レースのような紙切れが織り重なったような衣装。彼の周囲には香りがないのに、どこかで“懐かしい味”だけが鼻をくすぐる。
「あなたに足りないのは、“甘さ”です」
ブックレイは一冊の物語を手にした。
その世界では、“甘味”という概念が存在しない。味覚の中に、甘さだけが抜け落ちている町。
「あなたはその町で、味のない料理を作り続けることになります。けれど一人だけ、“甘さの記憶”を持つ住人がいます。──彼女に、出会えるかどうかは、あなたの感覚次第です」
カズトは無言で頷いた。
本のページが開かれ、風のない空間にざらざらと何かが舞った。
それは砂糖のようで、灰のようで、指先に残らないものだった。
「甘さなんて知らなくても、生きてはいける。でも……」
彼の心に、そんな未完成なレシピが刻まれていた。