令和四年四月月十七日。
富貴川園香はオフィスビルの大階段から転落した。二十七歳の誕生日の出来事だった。
全身を強く打ち一時は意識不明の重体に陥ったものの、なんとか回復。ただ頭を強く打った影響で、ここ一年の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっているようだ。
と言う医師の説明を、体のあちこちに感じる痛みに耐えながら聞いたのは四月二十日。
三日も眠り続けたうえに、記憶がないという衝撃的な事実に園香は言葉が出て来なかった。
記憶喪失なんてドラマの中だけの話だと思っていたのに、まさか自分の身に降りかかるなんて!
信じられなかったが、実際二十七歳の誕生日の夜にどう過ごしたか記憶がないので、医師の言葉は事実なのだろう。
家族の慰めも耳に入らない程、茫然自失になった――。
それが昨日までの話である。
一晩明けた今日、園香は大分落ち着きを取り戻していた。
二十七年の人生の内の直近一年の記憶がなくなったのは不運だけれど、不便さは致命傷という程ではない。これまで学んだことも人間関係も、ちゃんと思い出すことが出来るのだから。
(最近の出来事は、家族と友人に教えて貰えばなんとかなりそうだよね)
社会人になってからの時間の経過は本当に早くて、瞬く間に一年が過ぎている。
鏡に映る自分の姿は記憶が有る頃のままだ。
肩甲骨あたりまでのセミロングのストレートヘア。染めていない髪はここ数日手入れをしていないから少しゴワゴワしている。
全体的に丸いつくりのたぬき顔は、年齢より幼く見えがちだ。
体重も増えた感じはしないし、身長が延びる可能性は殆どないので恐らく163センチのままのはず。
(うん、全然変わらない)
覚えていない期間は、きっとそれなりに充実して、でも代わり映えしない毎日を過ごしていたのだろう。
(大丈夫。くよくよするよりも早く怪我を直して社会復帰しなくちゃ)
実家が経営するソラオカ家具店は、祖父の代で急成長して今では全国各地と海外に支店を持つ優良企業。
園香も社員として日々忙しく働いている。
対応しなくてはならない案件が多数あり、いつまでも休んでいられない。
(あ、でも今の仕事状況はどうなってるんだろう)
園香が抱えていると思っている仕事は既に終わっていて、新しい案件になっているはず。
(考えてみたら一年ブランクがあるようなものなんだ……これは思っていたより大変かも)
そんな風にまた不安になって来たとき、病室のドアをノックする音が耳に届いた。
「どうぞ」
園香の返事より僅かに早くドアが開いた。
遠慮の無さから家族が来たのだと思った。しかし病室に入って来たのはすらりとした長身の男性だった。
(この人、昨日もいた人だ)
当たり前のように両親と一緒にいたから誰だろうと気になったのだけれど、記憶喪失なんてショックな宣告をされた為、彼について尋ねるのをすっかり忘れてしまっていた。
「あの……どちらさまでしょうか?」
失礼だとは思ったが、彼は園香が記憶喪失だと知っているのだから、ストレートに聞いていいだろう。
「……本当に覚えていないんだね」
彼は落胆したように肩を落とす。
「はい、そうみたいです」
「僕は君の夫だ」
ベッド脇の椅子に座った男性は、とても悲しそうな顔でそう言った。
「……え?」
園香は大きく目を見開く。
(嘘でしょう? 私結婚してたの? この誰だかも分からない人と?)
分からないということは出会ったのは記憶を無くした一年以内ということだ。
出会って恋愛をして結婚。それら全てを済ませるには短すぎる期間だ。
自分らしくないが、時間なんて関係ないと言う程の、劇的な恋愛をしたのだろうか。
(でも……)
彼の顔を見ても、特別なものは感じないのはなぜだろう。
園香は戸惑いながら、改めて夫と名乗った青年を見つめる。
日本人にしては色素の薄い色の肌と髪と瞳。少し目じりの下がった綺麗な二重の目に存在感の薄い鼻と唇。癖のあるミディアムヘアの柔らかそうな前髪がふわりと額を覆っている。
柔和な印象。優しそうで、好感度が高い人物。
ただ正直言うと外見は園香の好みではない。昔からもっと鋭い印象の、寡黙でストイックな雰囲気の男性に惹かれるのだ。
(性格を好きになったのかな)
恐らくそうだろうが、思い出も何もない今の状況では彼に対して気まずさしかない。
夫と言われても信じられなくて……。
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