その夜、辺境ニンルシーラ領の空には春の満月が昇っていた。
風はやわらかく、冬の名残をさらいながら、ライオール邸の中庭を渡っていく。
十年前に植えた林檎の木は、枝を大きく伸ばし、ようやく白い花をこぼすほどに成長していた。秋にはきっと、小ぶりで真っ赤な実を結ぶのだろう。
ランディリックの寝室の窓からは、その姿がよく見える。
すぐ隣の部屋――内扉で繋がったその先は、リリアンナの寝室だ。
そこは、元々は城主であるランディリックの妻になる女性のためにしつらえられた部屋だったが、四年前、当時十二歳だったリリアンナを預かった際に彼女の部屋とした。
従者たちは叔父一家からの虐待に傷付いたリリアンナの傷が癒えたなら、別の部屋へ移されるだろうと思っていたらしい。
その間にランディリックがどこぞの令嬢を娶ることも想定していたのだ。
だが、あれから四年。結局未だランディリックは三十二になった現在も独身のまま。
リリアンナを立派な伯爵令嬢として独り立ちさせるまでは……と、臣下らにはもっともらしい理由を述べていたランディリックだったが、皆にも薄々分かっていたはずだ。
主君の胸にはリリアンナ嬢のことしかないのだと。
どちらの窓からも同じ花を見下ろせるのは、十年前、ランディリック自身がそうなるように計算して、林檎の木を植えさせたからだ。
まさかここへリリアンナを連れ帰ることになるとは思っていなかったが、あれは今思えば英断だったと思う。
最初のうちこそ、家臣らが思っていたように養い親として、傷付いたリリアンナの心を癒すための配慮に過ぎなかった部屋の配置だった。
そう。少なくとも、最初のうちは――。
今夜は月が明るく、花びらが光を受けて銀の粉を散らしているように見える。
ランディリックは窓から離れ、深く息をついた。
そのとき、ふと微かな匂いが鼻をかすめた。
――鉄のような、甘い香り。
咄嗟にリリアンナの部屋へと続く、中扉の方を振り返る。
これは、花の香りではない。
もっと近く、まるで隣室からこの部屋の中へ滲み入ってくるような……そんな感覚。
もちろん、扉は固く閉ざされている。施錠も、彼女の側からされている。
それでも、なぜか落ち着かなさに心臓が速く打ち始めていた。
十年前、船の上で感じたあの匂いが脳裏をよぎる。
果実の甘酸っぱい香りと、甘やかなリリアンナの血のにおいが混じり合う、危うい芳香。
理性がそれを〝思い違い〟だと警告してきたが、身体は勝手に動き出していた。
扉の前に立ち、呼吸を整える。
この喉の奥から渇望するような香りの主が、すぐそこにいる。
けれど、手を伸ばしてはならない――。
ランディリック自身が、そのことを誰よりも知っていた。
ふと視線を転じた先。窓の外では満開のミチュポムの花が月光を浴びて静かに揺れていた。
その白さが、血のように染まる幻が脳裏にちらつく。
――リリー。
名を呼びかける声は、誰にも届かぬほど小さかった。
けれどその瞬間、風がひときわ強く吹き抜け、花びらを孕んだ風が、ランディリックの心を揺らすように、カタカタと窓を震わせた。
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