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白石ひよりの豊満な胸を頭に描く。
そしてそれを黙殺することで、ツトムは落ち着きを取り戻す。
「あった、鍵」
スマートキーを手にして立ち上がった。
解錠ボタンを押すと、ジャガーXFが息を吹き返した。
「高級車ですね」
「一軍時代に見栄で購入したものです。まぁ、ぼくの凋落と連動するように、経年劣化が目立っていますが」
「そうですか」
「美濃輪さん。あなたの言う能力についてですが、ひとつ思い当たるところはありますよ……。たしかにぼくには、特殊能力があるかもしれない」
ツトムはそう言っては、美濃輪の反応を探るため意図的に言葉をとめた。
しかし美濃輪雄二は、鉱物でできたように型くずれなく立ったままだ。
「選球眼に優れミート打法に定評がある、そう業界内では評価されています。これがぼくの特殊能力です。野球を知らないあなたに、どのていど伝わるかはわかりませんが」
「南海ツトムさん。手短で端的な進行をお望みだったのでは?」
美濃輪雄二はあきれたような表情を浮かべ、かぶりを振った。
それは優しい風を受けた木の葉ほどの揺らぎだったが、ツトムははじめて美濃輪雄二の感情に触れた気がした。
「ではお聞きしますが、唐突にあなたは特殊能力者だと言われて、はい、そうですと答える人間がいるとお思いですか」
「います」
美濃輪雄二はそう答えた。
しかしツトムはその言葉をわざと聞き逃した。
「美濃輪さん。ぼくはさっさとここから抜けだして、一軍に復帰しなければならないんですよ。できるだけ面倒を抱えず、野球だけに集中したいんです。二軍球場にくるのは、これっきりにしたいんです。では失礼します」
ツトムはそのまま車に乗り込みドアを閉めた。
ジャガーのエンジンをつけ、オートウィンドウを3センチほど開いた。
「能力を隠したい気持ち、お察しします。ずっと誰にも打ち明けずに生きてこられたのでしょうから」
美濃輪雄二はそう言って、ウィンドウの隙間から一枚の名刺を滑り込ませた。
名刺は券売機から吐きだされたチケットのように、受取人をじっと待っている。
「もらっておきますよ。あなたからの連絡を受けつけないためにも」
ツトムは名刺を奪うように引き抜いた。
「南海ツトムさん。あなたは幸運を引き当てたのです。それだけは覚えておいてください」
「不運でしょ」
ツトムはウィンドウを閉じ、そのままジャガーを発進させた。
そして手にした名刺を助手席に投げ捨て、バックミラーを確認する。
ミラーには、用件を済ませて早々に立ち去る美濃輪雄二のうしろ姿があった。
ツトムは選手寮にむけて車を走らせていく。
……アナタハ、トクシュ、ノウリョクシャダ。
脳裏には美濃輪雄二が発した言葉たちがまとわりついていた。
ハンドルを握る手には自然と汗が浮かんでいた。
県道にでて3分ほど進んでも、汗はなかなか引いてくれない。
鋭い目つきと淡々とした口調。
そこから放たれた、荒唐無稽なおとぎ話。
決してツトムを冷やかしているわけではない。
まるで太古より変わらない定説でも唱えるような確固たる口調であり、それこそがツトムをこの上なく不快にさせた。
球場から遠ざかるほどに、美濃輪の言葉が熱を帯び、内部に溜まっていく。
窓の外を流れる景色は、蜃気楼のように原型を留めていなかった。
ツトムは運転に費やすべき思考を、美濃輪雄二に奪われていた。
ふと意識をフロントガラスに戻したときには、ジャガーは赤信号を突破して交差点内に進入していた。
キイイイイッ!
反射的に急ブレーキを踏んだ。
タイヤと路面が激しい摩擦音を響かせる。
車体はドリフト走行をするように反転しながら、交差点中央で止まった。
となりを並走していたはずの赤い軽自動車が、ツトムの真正面に停まっている。
サングラスをかけた女性運転手が、卵を丸呑みするほど大きく口を開けている。
交差点に進入してくる左右の車両が、クラクションとブレーキの多重奏を響かせた。
ツトムは車内に視線を移し、ダッシュボードに固定してあるアナログ時計に目をやった。
そして秒針を見つめ、人差し指を眉間に当てた。
そのまま目を閉じ、針を弾くように指を折り曲げる。
クイッ、クイッ、と2回。
瞬時にツトムを取り巻く景色が入れ替わった。
愛車ジャガーはまっすぐに、交差点へとむかっている。
それはつい数秒前とおなじ光景だった。
ツトムは前方の黄色信号をしっかりと確認しては、停止線に合わせて車を停めた。
赤い軽自動車がジャガーのとなりに停車している。
交差道路側の信号が青に変わると、車たちが穏やかに目のまえを横切っていった。
どこにでもある平和な道路が復旧されたのだ。
「6秒使ってしまった。リセットかけておかないと」
ツトムは意識的にそう声にし、適当な路肩を見つけて車を停めた。
窓を開け、球場から運んできた淀んだ空気を外へと押しだす。
手のひらに滲んでいた汗が風で乾きはじめると、ドリンクホルダーに置いてある紅茶を一口飲んだ。
それからアナログ時計を見つめた。
もっとも長く活動的な秒針を見つめ、人差し指を眉間に当てる。
そして頭のなかに秒針を再現させながら、『クイッ』と一度ひっかくように弾いた。
大型トラックがけたたましいエンジン音をあげながら、ジャガーのそばを通り過ぎていく。
開いた窓からは、排気ガスが侵入してくる。
しかしツトムは一切の反応を示さない。
ツトムは9秒間の、完全停止状態に入っていた。
なにかを考えているわけでも、また眠っているわけでもない。
ツトムは完全なる無機物となって、人体機能のすべてを停止させていた。
思考も、呼吸も、ましてや細胞分裂もない、9秒間。
ツトムを除く世界はいつもと変わらない時を刻んでいる。
ただツトムだけがすべての機能を停止させたままその場に存在していた。