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ツトムはようやく、有機物へともどった。
ぱっと目を開け、助手席に投げ捨てた名刺を手に取り見つめた。
「……株式会社CJルート社長室長、美濃輪雄二」
なんの変哲もない、刷りたての名刺だった。
会社の所在地や代表電話や個人のEメールアドレスを確認してみるが、どこにも自分との関連性は見受けられない。
車載ホルダーにかけてある携帯電話を手にし、ウェブブラウザを開いて会社名を検索してみた。
「貿易商社。主に衣類の輸入販売を中心として……。従業員130名」
ツトムはもう一度名刺に目をやった。
しかしめぼしい情報がないのを知ると、再び助手席に放り投げた。
それから携帯電話にイヤホンを接続し、通話履歴をたどって上原美咲(うえはらみさき)に電話をかけた。
「もしもし、ツトムくん。今日残業してて、やっと会社終わったとこなんだ。最終戦、どうだった?」
美咲は帰り道を急いでいるようで、やや息を乱していた。
「いつもとおなじで、今日も出番はなかったよ。選手寮と球場を往復するガソリン代がふっ飛んだだけさ」
「最終戦だってのに、今日も新人さんにばかり打席が回ったの?」
美咲が心配そうに言った。
「よほどのことがないかぎり、監督は俺ら中堅なんて起用してくれないよ」
「でもツトムくん、よほどのことがある選手じゃない」
美咲の嘘のない声に、ツトムは救われるような気分だった。
「いずれにしても、結果をだすには打席に立つしかない。そして俺には打席が回ってこない。相も変わらず一軍時代に起こした二度の失神事件が、亡霊のようにつきまとってるんだ。
打率や好不調は関係ないんだろうね。おそらく首脳陣の手に届く報告書には、『南海ツトムは危険』とだけ書かれてるんだ。太字で」
「南海ツトムじゃなくて、『気絶王子は危険』って書かれているんじゃないの……」
「かもしれないな」
当時マスコミは、ツトムの公式戦での二度にわたる失神を、ゴシップ枠として大きく報じた。
見出しには南海ツトムという選手名ではなく、『気絶王子』との呼称がつけられていた。
結果、その名が世間に広く知れ渡った。
端正な顔立ちと気絶という珍事が相まって、ツトムは一時マスコミの恰好のエサとなり、マスコット的な人気を博した。
ツトム自身、そうした不名誉な呼称を払拭するために戦ってきたが、いまだ一軍復帰どころか、打席に立つ機会もほとんど得られていない。
「試合にでられないのに、どうして戦力外通告を受けないんだろうね……」
美咲は無意識にそうつぶやいた。
もちろんその言葉に悪意がないのはわかっている。
「俺を引退させる大義名分がないからさ。医療検査の結果は健康体そのものだから、球団側はほかの理由を探ってるんだよ。
打席数を減らして活躍できなくしておいて、最終的に契約解除の理由とする。そうした長期戦略の真っただなかにあるのかもしれない」
「仮にも子どもたちが憧れるプロ野球選手を管理する球団だよ? そんな子どもじみた方法で、選手を少しずつ追い込むなんてあっていいの?」
「確信はないよ。でもずば抜けた活躍ができてない俺自身にも責任はある」
「打つ機会もくれないくせに……」
「俺ももう24になった。おそらく今年が最後の更新で、来年は確実にアウトさ。もう正攻法では通用しないだろうから、ちがった切り口を考えなきゃ」
「野球もがんばりながら、将来のことも考えなきゃならない忙しい年になりそうね」
――ツトムくんなら、来年きっと活躍できるよ。
暗にそうした言葉を期待していたのかもしれない。
しかし美咲の口からでたのは、苦しい現実をつきつける内容だった。
悪意もなく、同時に容赦もない言葉。
心が淀みそうになる。
ジャガーを発進させ、道路の流れに溶け込むように速度をあげていく。
車が安定した速度に達すると、気を紛らわすためにラジオをつけた。
スピーカーからはモーリス・ラヴェルのボレロが流れ、車内はわずかながら柔らかな空気に包まれた。
「ところでさ。試合のあとに球場をでたら、陰湿な冷やかしにあったんだ。やたら目つきの鋭い男がやってきて、無表情に名刺を渡して去っていったよ」
「他球団のスカウトマンとか?」
「貿易商社のサラリーマン」
ツトムは速度計を確認しながら言った。
「名刺には社長室長って書いてあるけど、これって高い役職?」
「んと、年齢とか会社の規模によるかな」
美咲はすこしあきれたように言った。
「30歳くらいに見えたけど、ほとんど表情がない男だったからよくわからない。会社の従業員は150人ほど」
美咲は「へえ」と声を漏らした。
「その規模で30歳の社長室長なら、エリートだよ。社長の片腕としてバリバリ仕事して、まわりからの信頼も厚いはず」
「そうなんだ」
「名刺、ちゃんと保管しておいたほうがいいよ。ほんとうに大切な用件があってツトムくんに声をかけたのかもしれないから、ぜったいなくさないようにね」
「俺はまだ野球のことだけを考えていたいんだ。こんな名刺いらないよ」
「いらなくても、もっておいたほうがいいって。……あっ、もう電車がくる。またかけるね」
美咲はそう言って電話を切った。
ツトムは信号待ちのあいだに、再び美濃輪雄二の名刺に目をやった。
おもて面に印字された文字列を眺めたあと、何気なくひっくり返してみた。
すると裏面には美濃輪雄二のものと思われる、手書きのメッセージが書き込まれていた。
信号が変わり車を走らせ、再び路肩に停車した。
ラジオから流れるボレロは、弦楽合奏が積み重なり、壮大なオーケストラを形作っていた。
ツトムは打楽器群の荒々しい打音を聴きながら、何度も荒い呼吸を繰り返した。
ボレロがクライマックスをむかえると、静まり返った車内には、携帯電話のプッシュ音だけが残った。
『はい。美濃輪です』
抑揚のない乾いた声。
漆黒のスーツと固められたオールバックが鮮明に浮かぶ。
「さきほど球場でお会いした、横浜アイアンフェアリーズの南海ツトムです」
『南海さんですね。思ったより早く連絡をくださいましたね』
「頭に邪念があると、バットスイングが鈍るんです。さっさとそうした面倒から解放されたいので、一度会って話を聞かせてもらえますか」
『了解しました。では近いうちに弊社までお越しください』
ツトムはその場で、美濃輪雄二との約束日時をとり決めてから電話を切った。
静寂が降りた車内で、ツトムは名刺から目を離せないでいた。
<能力者たちのシェアハウス>
名刺の裏に書かれていたのは、角張った字体とはかけはなれた奇怪な文面だった。
ツトムは手書きのメッセージを指でなぞったあと、名刺をフロントガラスに投げつけた。
そしてゆっくりと目を閉じ、頭に白石ひよりの豊満な胸を浮かべる。
――ねぇ、わたしの胸……さわってみる?
体育倉庫のとび箱に、ひよりが座っている。
白いブラウスの隙間からは、深い谷間が見える。
――きれいだ。
ツトムは無意識にひよりの胸に触れようと近づいては、石灰を吸い込んでむせ返った。