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🕊 みりん亭 外伝
「鳥の名前を捨てた日」
現実の空は、VRよりも無地に近かった。
駅のホーム。夕方でもないのにくすんだ光が落ちていて、
人々の足音だけが、乾いたリズムで行き交っている。
その中に一人、フードパーカーを着た男性が立っていた。
肩幅は細く、姿勢は浅く曲がり、目元にはうっすらクマがある。
髪はぼさっと短く、前髪が目にかかっている。
イヤホンを片耳だけしていて、反対側のポケットには、古い型のスマートデバイス。
彼の本名は、画面の中にも、もう残っていない。
「ログイン名、また“やまひろ”でいい?」
カフェの隅、学生時代の同期が軽く聞いてくる。
若干チャラめのスーツ姿、笑いじわだけは多くなっていた。
「いや……もう、違うの使うつもりだったけど、思いつかなくて」
そう言った彼は、曖昧な笑いを浮かべてカップを指先でくるくる回す。
「ほんとは、名前変えようと思ってたんだ。
“やまひろ”って、昔のテストアカウントだっただけで、
プログラムも途中で投げたやつだし……
もう、ずっと使ってる意味もなかった」
「じゃあ、なんでまだ鳥のままなん?」
その質問に、男は答えなかった。
けれど、指先でスマホを開くと、そこにはあのアバターの影が浮かんでいた。
小さな鳥。黄色い羽。頭にぴょこっと跳ねた毛。
自分では見えないが、ログイン中、彼はその姿になっていた。
――昔、開発テストで
「人型アバターに疲れたら、鳥型に切り替えできる仕様」
を試したことがある。
その時、誰かが笑いながら言った。
「これいいな。責任持たなくてよさそう」
「そうそう、“浮いてるだけ”って楽だよな〜」
「なんか、アイツっぽくね? やまひろ、お前とか」
彼はなにも言わず、鳥型アバターを選び、
それっきり名前も姿も変えずに、十年以上が経っていた。
帰り道。夕暮れより少し手前の空。
歩きながら、彼はふと、スマホの旧式VRメニューを開いた。
表示名:やまひろ
アイコン:鳥(黄色)
アバター設定:変更不可
コメント欄:空白
彼は、無言で編集ボタンを押し、表示名を一行削除する。
表示名:(未設定)
でも、保存ボタンには指を置かなかった。
「……結局、変えないんだよな」
駅前の小さな公園。
彼は、ベンチに腰を下ろしてつぶやく。
画面の中の鳥が、静かにこちらを見ている。
何も言わない。何も求めない。ただそこに“浮いている”。
「……でも、“浮いてる”だけで、
誰かの料理のログを守ってるなら、
それでもいいかって……思ってる自分がさ、
たぶんいちばん名前にこだわってるよな」
彼は小さく笑って、保存ボタンを押さずに画面を閉じた。
※ 表示名:やまひろ(変更なし)
理由:本人による選択
ログ:未記録
鳥は、名前を捨てなかった。
けれど、それはもう“名前に縛られている”のではなく、
“居場所にしている”というだけの話だった。