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ちょっと長め
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香水の香りがまだ微かに残る部屋。
窓から差し込むやわらかな朝日が、藤澤のまぶたをそっと照らした。
「……ん」
目を覚ますと、そこは香水店の2階――大森の部屋だった。ソファに横たわったままブランケットに包まれていて、誰かがかけてくれた痕跡がある。
「そっか、ぼく昨日泊めてもらったんだった」
──昨夜のことがじわじわと恥ずかしさとともに蘇ってくる。
キスをした。
いや、された。したのか? しかも二度も。
「うわ……」
藤澤はブランケットの中に顔を埋めた。
熱っぽくて、寝起きのせいじゃない動悸が胸に残っている。
そんなとき、階下から香りが漂ってきた。
焙煎したコーヒーと、朝の光に合うような柑橘系の香水の匂い。
恐る恐る階段を下りると、大森がカウンターの奥に立っていた。白いシャツの袖を少しまくり、手には湯気の立つマグカップ。
「おはよう。眠れた?」
「少しだけ。香りのせい、かな」
「香りの“おかげ”でしょ」
「…..うるさいです」
顔を真っ赤にしてそう答えると、大森は微笑んで黄色いマグカップを差し出してきた。
「ブレンドコーヒー。今日は柑橘系の気分だと思って。レモンピールとベルガモット少し」
藤澤は無言でカップを受け取った。
香りに気持ちを読まれるのは慣れてきた。
でも、早朝の回らない頭ではまだうまく言葉が出ない。
「昨日のこと、謝らなくていいですから」
「謝るつもりないよ」
即答だった。
「だってちゃんと香りで伝えた。あれは“処方”じゃない。僕の気持ち」
そう言って大森はカウンター越しに藤澤を見つめる。
目の奥は、静かに燃えていた。
「君のことが、好きだよ。香水で包むだけじゃ足りないくらいには」
コーヒーの香りが熱を帯びて滲んでいく。
藤澤はそれを飲むふりをして、視線を逸らすしかなかった。
自分のことを「好き」だなんて簡単に信じられるような状態じゃない。でも、どこか心の奥がじんわりと溶けていくような感じがして──怖くて、少し、嬉しかった。
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残業明けの眠れない夜
「好きだよ。香水で包むだけじゃ足りないくらいには」
あの日、大森が真っ直ぐに言ったその言葉がずっと耳の奥に残っていた。
──なんであんな風に、まっすぐ言えるんだろう。
「好き」だなんて、そんな軽々しく抱えられるものじゃないのに。
藤澤はその日以来、香水店に足を運ばなかった。
忙しいふりをしてわざと違う道を通って帰って、香水の匂いが染みついたスーツすらクリーニングに出した。
職場では相変わらず理不尽な叱責と上司の圧が降り注ぎ、肩は重く胃の奥が冷たくなるような毎日が戻ってきていた。
夜、電気を消してベッドに入る。
眠れない。
目を閉じた瞬間に思い出すのは、香りだった。
あの沈丁花。
ふわっと浮かぶように香って、気づいたら胸の奥まで入り込んでいた。そしてその香りのすぐそばには、大森の声があった。
「君は、眠れてるふりが上手い。でも心はずっと起きてる」
そのとき言われた言葉がじわじわと胸を締めつけた。
──なんであの人、あんなに僕のことを見抜いてくるんだろう。
──何もできなくて無価値な僕を。
久しぶりの休日。誰にも会いたくなくて部屋にこもっていた。けれど、不意に…手首に香りが残っていることに気づいた。
あの日、最後に大森がつけたごく少量の香水。もう洗い流したと思っていたのに、そこにはまだ残り香があった。
藤澤はゆっくりと手首に鼻を寄せ、目を閉じた。
それは沈丁花とベチバー、それから少しのシダーウッド。深くて、安心して、どこか寂しい香り。
気づけば足が動いていた。スマホも財布も持たず、ジャケットすら羽織らずに、ただあの場所へ
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香水店「MORI」。
閉店間際、ドアを開けると変わらぬ空気と彼がいた。
「久しぶり。来ると思ってた」
「……なんで」
「君の香り、消えてなかったから」
藤澤は唇を噛んだ。
逃げようと思っていたのに、もう逃げられないと本能で察知してしまった。
「ぼく、いろいろ壊してしまいそうで怖かったんです」
「いいよ、壊れても。僕が全部香りで包む」
「ずるいこと言わないでください」
「じゃあ今からずるくするから、逃げないで」
大森がゆっくり近づき、藤澤の手首にそっと触れた。
香りが、そこから再び広がっていく。
眠れぬ夜に、名前を持たない香りが静かに灯っていた。
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閉店後の香水店「MORI」は、まるで別の世界だった。街の喧騒は遠く、瓶のガラスが微かにきらめくその空間には、香りと静かな音だけがあった。
藤澤は店の奥のソファに座っていた。
手には温かいハーブティー。ほんのりとラベンダーとカモミールの香りが混ざっている。
「……今日は眠れそうです」
ぽつりと呟くと、大森がカウンターの奥からノートを1冊手に持ってきた。
「これ、なんですか?」
「これはね、僕の調香メモ。誰にも見せたことないんだけど」
そう言ってノートを差し出す。
藤澤がページをめくると、そこには緻密に記された香りの配合がずらりと並んでいた。
花、木、スパイス、果実ーー何十種類もの素材が記号のように並び、そこに書き添えられたタイトルが目に止まる。
処方名:Ryouka No.1
コメント:沈丁花をベースに夜の気配を。やや苦い。
備考:表情は変えないが鼻が少し動いた。効いている。
藤澤は思わずページをめくる。
Ryouka No.2
睡眠導入率は高い。しかし少し「寂しい」と言われた。
鼻ではなく喉元に少量。呼吸に合わせて効かせる。
Ryouka No.3
完成に近い。本人は「落ち着く」と言った。
それだけで十分だったのに、また配合を変えてしまった。
そしてそのページの端に、小さく走り書きされていた。
……好きになってから、香りが安定しない。
君に効いてほしいのに、効いてほしくない。
長く香ってほしいのに、早く消えてほしい。
君がまた来ますように。
藤澤の指が、その文字の上で止まった。
何かを言おうとして喉が詰まる。
──自分だけの処方。
誰にも知られず、何度も、何度も、繰り返し試されていた。
睡眠のためじゃない。疲労回復のためでもない。それは、大森が「好き」という気持ちそのものを香りに変えようとした記録だった。
「僕の匂い、そんなにめんどくさいですか」
冗談めかしてそう言った藤澤の声は、少しだけ震えていた。
大森はノートをそっと閉じて言う。
「うん。めんどくさいよ。でも、俺が一番好きな香り」
その言葉がなぜだか胸の奥をゆっくりとほどいていった。
「じゃあ、しばらくは通ってもいいですか。香り、安定するまで」
「ダメ」
「……え?」
「安定したら、君が来なくなる。だからずっと不安定でいい」
大森がそう言って笑う。
藤澤は吹き出して、そして少しだけ泣いた。
眠れない夜が、ようやく「名前」を持った気がした。