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雨が降ると、藤澤は少しだけ壊れやすくなる。
天気のせいというよりは、湿気で濁った空気がそのまま心に滲んでくるような感じだった。
いつも以上に眠れず、思考も肌も曇って、心がどこかに落ちてしまうみたいだった。
この一週間、藤澤はずっと忙しかった。
上司からの指示は深夜に飛んできて、同期は倒れ、代わりに差し込まれる案件に追われる毎日。それでも文句ひとつ言わずにやってしまう自分が、余計に嫌だった。
香水店にも行けていなかった。
睡眠用の香水が切れていたことに気づいたのは、3日ぶりに布団に入った夜だった。
「…やばいな」
寝ても起きても夢に出るのは大森だった。
香水の香り、低くて静かな声、そしてあの夜の雨の音。
自分のことを好きだとは言わないくせに。
それに近い何かを香りにして届けてくる、あの距離感。思い出すたびに心の奥がきゅう、と痛んだ。
_____________
その日の帰り道、藤澤は駅の階段を下りきったところでふと足を止めた。
雨の匂いが、肌にじわっと染み込んでくる。
頭が重い、目の奥が熱い。
けれど、歩かなくちゃと足を出した瞬間――視界が白く霞んで、ガードレールに手をついた。
次の瞬間には、膝が折れた。
「……、……っ」
声が出ない。
誰かが呼んでくれることもない暗いひとりぼっちの夜道。雨音だけが、ずっと、鼓膜に叩きつけられる。
一方その頃、香水店では。
大森はなぜか、言いようのない胸騒ぎにかられていた。
営業終了後のバックルーム。
調香ノートの隅に書きかけの処方名がいくつも並ぶ。そのどれもが「Ryouka」の名を持ち、完成していなかった。
「おかしい。今日は来る気がしてたのに」
雨の日。
藤澤が初めてこの店に来た日も雨だった。
大森はふと、テーブルに置かれた瓶に目をやる。
Ryouka No.4──未公開、試作品。
沈丁花とシダーウッドに、ほんの少しレインリリーの透明感を混ぜた処方。
彼のためだけに作った。
けれど、まだ渡せていない。
(……まさか)
急いでレインコートを羽織り、傘も持たずに飛び出す。香りの記憶だけを手がかりに、駅までの道を探す。
途中、藤澤の残り香をかすかに感じ取った。すれ違いざまに漂った、あのシャンプーと、わずかに残るNo.3の香り。
(いる、近い)
ガードレールの影にしゃがみ込むように倒れ込んでいた藤澤を、すぐに見つけた。
「藤澤…!」
_____________
意識は朦朧としていたけれど、その声だけははっきり届いた。
雨と体温と混じって、嗅ぎ慣れた香水がやさしく鼻先に落ちる。
「…どうしてわかったんですか」
かすれた声で尋ねる藤澤に、大森は静かに答える。
「君の匂い、知ってるから。探すのに理由なんていらない」
「バカみたい」
「そう。バカになれるくらい、君のことが好きなんだと思う」
一瞬、時間が止まった。
でもその直後、大森は「あっ」と口を噤む。
「今のは間違い。いや、間違いじゃないけど、まだ言うつもりなかった」
「ほんと、ずるいです。あなたはいつも」
藤澤は、大森の服の袖をぎゅっと握る。
「好き、なんて言われたら、逃げられなくなるじゃないですか」
「じゃあ言わない。まだ」
「……でも言ったよ」
「うん。だから今日は甘やかす権利、僕にください」
その夜、藤澤は大森の部屋で深く眠った。
処方No.4の香りを、枕元にほんの少しだけ落として。それは、雨の夜にだけ咲く、特別な香りだった。
_____________
雨は止んでいた。外では車のタイヤが濡れた道路走る音がかすかに聞こえる。
室内は、静かだった。
藤澤はまだ眠っていた。
頬にかかる髪をかきあげても起きないほど深く、静かに。
大森は、ベッドの隣の床に座り込みぼんやりと彼の寝顔を見ていた。
──眠れてる。ようやく。
それだけのことで胸がいっぱいになる。
だってこの人は何日も何日も、自分のことを後回しにして、会社に削られて、それでも誰にも頼らずに生きてきた。
「ほんと、バカみたいに頑張りすぎなんだよ」
ぽつりと、誰にも届かない声で呟いた。
横には調香ノートがある。
藤澤が倒れた夜、思わずページを開いて──まだ書き終えられていない処方があることに気づいた。
処方名:Ryouka No.5
状況:体温が下がっていた。呼吸浅め。雨の夜。
目的:ただそばにいたい。香りで起きてほしくない。
ペンを持って続きを書こうとして、手が止まった。
「目的」の欄にもう一度目をやる。
目的:ただそばにいたい。
……そんな処方があるものか。
香水は何かに効くために作る。眠りに、覚醒に、緊張に、癒しに。
でもこのNo.5は、どこにも効かない。ただ、大森が藤澤に対する「好き」という気持ちだけが詰まっていた。
ふと、藤澤が寝返りを打つ。
その拍子に布団が少しずれて、白いうなじが覗いた。
(…ああ)
その瞬間大森は抗えなかった。
そっと身を乗り出し顔を近づける。鼻先が、彼の髪に触れそうな距離。
香ったのは自分の処方した香水──No.3の残り香と、雨に濡れたあとに変化した皮膚の香り。
誰のものでもない、藤澤涼架の匂い。
「好きなんだよ、ほんとに」
声に出してしまった。小さく、震えるように。
そしてゆっくりと顔を傾け、唇がほんの数ミリ、藤澤の頬に触れそうになったとき。
「おおもり、さん?」
目が合った。
寝ぼけ眼の藤澤が薄く目を開けていた。声もまだ眠たげで、焦点も合っていない。
「……ん……? 今、何して……」
「ごめん。ちょっと、近かった」
「うん、ちょっと近いです…」
でも、藤澤は顔を背けることもしなかった。
むしろそのまま目を閉じて、ひとつ深く息をついた。
「なんか、安心する」
「え?」
「大森さんの匂い。近くで、眠れる」
そう呟いて、再び深く眠りに落ちていった。
──香りのせいだと思いたかった。
でも、大森はもう気づいていた。
それはもう、香水じゃ届かない場所にある感情だ。
窓の外が、ほんのり明るくなってきていた。
雨上がりの朝。
新しい香りが、また咲こうとしていた。