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夫との息苦しい同居の中、朋美の心の拠り所は、井浦和寿の存在だった。運行管理表の計算が遅い時は、空のペットボトルで軽く頭を叩きながらも手伝ってくれた。深夜、釣り銭の両替時に『頑張って下さい』と言葉を掛け、事務所をふり仰げば窓辺に立ち朋美を見送った。それが嬉しく、朋美は必要もないのに手袋を買い、両替に寄った。
その夜も、朋美は雨の街角でタクシーの乗車客を待った。エンジン音だけが響く車内、路上は人通りが少なく物思いに耽るにはちょうど良かった。朋美は、スマートフォンを取り出すと(上司 スキンシップ 心理)と検索した。そこには、距離を縮めたい、好意を抱いていると表示された。ただ、性的な下心という文字に顔をしかめたが、井浦からはそんな気配はなかった。いつしか朋美は、フロントガラスを伝う雨の雫を眺めていた。ガラスの油膜に、信号機の点滅が滲んで見えた。朋美の目頭が熱くなり、涙が頬を伝った。
(所長が好き)
ドライブレコーダーが作動しているにも関わらず、その涙はとめどなく頬を伝った。そして初めて気が付いた。
(所長が好き、私、所長が好きなんだ)
朋美はタクシーのギアをドライブに落とした。スマートフォンを握り締め、アクセルを踏んで井浦が勤務する事務所へと心を逸らせた。一時停止の交通標識を見落としそうになった。焦って縁石に乗り上げた。
深夜の車庫は静かで、同僚たちは皆、出庫していた。タクシーのドアを閉め、震える指先で鍵を掛け、大きく深呼吸してアルミニウムの扉を開けた。タバコと男臭いにおいが染み付いた休憩室を抜け、階段を上った。朋美の心臓はドクドクと脈打ち、階段を上る足は緊張で縮こまった。
踊り場で深呼吸すると、壁に、靴で蹴られた跡が残っていた。少し凹んでいる。これは、井浦和寿が乗務員と口論になった際につけたものだと聞いた。百数十人の乗務員をまとめ上げるには、激しい面を持ち合わせているのだろう。乗務員を叱る厳しさの裏で、疲れた目で微笑んだ彼を思い出した。朋美は今からそんな相手に告白をしにゆくのだ。ふり仰ぐと事務所の明かりが見えた。緊張で、セカンドバッグを胸に抱えた。
ピッピッピッツ
事務所からタクシーの位置を知らせるGPS音が聞こえた。井浦和寿は起きているだろうか、唾を飲み込んで中を覗くと、彼は椅子の背もたれに体を預け、仮眠を取っていた。朋美はスマートフォンを力を込めて握り、カウンターに向かって声を掛けた。
「あの、すみません」
小さな声で聞こえなかったらしく、井浦和寿は3度目の呼びかけで訝しそうな顔をした。こんな時間に乗務員が戻ってくるのは両替か、面倒な事故の報告くらいだ。寝起きで面倒臭そうに頭を掻いた彼はカウンターの前に立ち、手袋か両替かと口をへの字にした。朋美はカウンターに自分のスマートフォンを置いた。
「どうしたの、またなにかあったの?」
「所長、これ・・・」
朋美の精一杯の告白だった。
所長
お話があります
会社の外で会えませんか?
それを見た井浦和寿は、急に目を輝かせてカウンターから飛び出すと、乗務員の勤務表を確認するために大股で壁に駆け寄った。その姿は所長ではなく一人の男性だと思った。彼は朋美の勤務表を指でなぞって明後日はどうかと振り向いた。
「分かりました」
「明後日のPM5:45に蒲田病院前で」
朋美は赤らむ頬を隠しながらお辞儀をして、階段を駆け降りた。事務所を振り向くことも気恥ずかしく、そのままタクシーに乗り込んだ。すると、ナビゲーションが鳴ってメッセージが表示された。
頑張ってください
朋美は一筋の希望を見出した。