それから季節が一つ巡り、屋敷の庭には白い椿が咲いた。
恒一は以前よりも人前に立つことが増え、当主としての振る舞いも板についてきていた。
その変化を、ルカは誰よりも近くで見ていた。
「最近の恒一様は、よく笑われますね」
ある午後、書斎で紅茶を淹れながらルカが言うと、恒一は書類から目を上げる。
「そうか?」
「ええ。以前よりも、ずっと」
一瞬の沈黙。
恒一はペンを置き、窓の外に視線を向けた。
「……君がいるからだよ」
それは独り言のようで、しかし確かにルカに向けられた言葉だった。
⸻
その夜、恒一は珍しく執事室を訪ねてきた。
「ルカ。少し、話がしたい」
執事室は質素だったが、きちんと整えられている。
恒一はその様子を見渡し、ふと眉を下げた。
「君の世界は、ここなんだな」
「はい。過不足のない場所です」
「……僕の部屋より、落ち着く」
そう言って、恒一は小さく息をついた。
「今日は、“当主”じゃない僕として話したい」
ルカは静かに椅子を勧める。
「承知しました。——恒一様」
その呼び方は変わらない。
だが、空気はいつもより柔らかかった。
⸻
「怖いんだ」
恒一は唐突に言った。
「立場を失うことも、信頼を失うことも。
でも一番怖いのは……」
言葉が途切れる。
「君が、いなくなることだ」
ルカはすぐには答えなかった。
執事としての正解は、慰めることでも、約束することでもない。
それでも——。
「私はここにいます」
短く、はっきりと。
「今この瞬間も、明日も。
それは、契約だけの理由ではありません」
恒一は驚いたように目を見開き、それから、ほっとしたように笑った。
「……ずるいな、君は」
⸻
その日から、二人の間に小さな変化が生まれた。
言葉を交わさなくても分かる沈黙。
視線が合ったときの、わずかな間。
夜の見回りのあと、同じ月を見る時間。
触れ合うことはない。
それでも、確かに“特別”だった。
⸻
ある朝、恒一は言った。
「もし……すべてを終えたあと、
ただの一人の人間になれたら」
ルカは答える。
「その時は、私は執事ではなくなりますね」
「……それでも、そばにいてくれる?」
ルカは一瞬だけ微笑み、深く一礼した。
「その問いに答える資格を得るために、
私は今日も、良い執事であり続けます」
恒一は何も言わず、ただ頷いた。
⸻
主と執事。
超えてはいけない線は、今もそこにある。
それでも二人は、
いつか言葉にする日を知らぬまま、
同じ時間を選び続けていた。
静かで、確かで、
誰にも見えない想いを抱いて。






