テラーノベル
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「ほら、七時は疾うに過ぎたわよ。はやく帰りなさい」
「はーい! 先生も早く帰らなきゃだめだよー!」
きっと今が一番楽しい時期であろう彼女たちは、スカートの裾をひらひらと翻しながら楽しそうに廊下を駆けていった。時折聞こえる小さな歓声に、自分にもそんな時代があったのだと懐古する。
私だって早く帰れるものならそうしたい。だが、新人教師にそんな権限はないのだ。
廊下の窓から校庭を眺めると、文化祭の準備で居残った生徒たちが、生徒指導に追いやられる形で下校していた。自分もあの先生によく怒られたものだと懐旧しながら、校舎の見回りに再度取りかかる。教師というものは思ったよりも大変なものだ。
「ああ、五十嵐先生。見回りお疲れ様です。こっちはもう全部終わりましたから、体育館側の校舎をお願いしても良いですか?」
階下へ向かおうとした際、ちょうど下から登ってきたであろう三年の担任と鉢合わせ、私の体は分かりやすく跳ね上がった。確認した場所から順繰りに電気を消していくせいか、煌々と光る踊り場に立つ先生がやや不気味に見えたことは言うまでもない。
かくいう私も暗がりから突然現れたのだから、向こうも内心驚いたかもしれない。
「あ、こっちも三階までは終わりました。遅くなってすみません」
「いいんですよ、五十嵐先生も教師になって初めての文化祭でしょう? 大変だとは思いますけど、楽しみましょうね。じゃあ、自分は食堂と駐車場見に行きますんで、体育館側をよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます」
つい昨年までは勉強に次ぐ勉強、そして教育実習に教員試験と、間違いなく人生で一番ハードな日々を送っていた。母校に就任できたことは全ての要因を含めても、私には幸運であったに違いない。
当初から何か目指すものがあったわけではないものの、かつての恩師たちと同じ場所に立てたことはなにやら感慨深いものがある。
そんな春先のことを思い出しつつ、私は仄かに明るい校舎を突き進んでいった。こちら側の建物は部室や更衣室が集約されているだけなので、見回る箇所もそう多くはない。
「よし、戻って報告しないと」
そう踵を返した瞬間、
ザザ……、ザァアアア────
耳障りなノイズ音が、館内放送用のスピーカーから絶えず流れてきた。一瞬文化祭の件で方方に散らばった先生の呼び出しでもあるのかと思いきや、そのノイズ音はいつまで経っても止みはしない。
「……故障?」
ザ、ザザ……、ザァアアア────
尚も続くノイズ音に、私の背中になにやら冷たいものが這う。立ち止まっていた足を無理やり動かし、半ば走る形で本校舎側へと向かうと、天井の照明がぱち、ぱちと明滅しだした。とてつもなく嫌な予感がする。
ザ、ザザ……、
ザザ、
『───さん、五十嵐さん』
ノイズ音を背中に聞きながら駆け抜けた廊下で、突然妙にハッキリとした声色の放送が降ってきた。一瞬どきりとはしたものの、走る足を止めてスピーカーを見上げる。やはり機械の不調だったのだろうか……。
急に立ち止まったせいか心臓が激しく痛み、体の中で大きく脈打っているのが分かる。深く息を吸い込み、五秒程経ったあたりで吐き出した。
よくよく考えてみれば、見回りに時間をかけすぎてしまったのかもしれない。仕事とはいえ、他の先生たちだって早く帰りたいはずだ。ゆっくりやって迷惑をかけるわけにはいかない。
ザ、ザザ……、
『───五十嵐さん、五十嵐さん』
「わわわ、今戻ります。遅くなってすみません!」
『五十嵐さん──、五十嵐さん五十嵐さん五十嵐サン五十嵐サンいがラシサンイガラシサン』
突如機械色の強くなった声色に、いつだったかの恐怖が鮮明に呼び起こされた。学生時代に起きたあの気味の悪い記憶。時が経つにつれ幻覚だったのではと思うようにしていたが、あれは到底幻覚で片付けられるものではない。
明滅を続ける廊下を、震える足で一歩二歩と踏みしめていく。足がガクついて上手く歩けないが、大丈夫、大丈夫と必死に自分を言い聞かせて歩き出す。
ザザ……、
『五十嵐さん』
───声が、真横から聞こえた。
前に踏み出した足がびたりと止まると、カラカラに乾いた口の中で空気がねっとりと絡みつく。油のさされていない機械のように、私の目はぎぎぎ、という音を立て視線だけを横に向けた。
視線の先には子どものような小さな手とほっそりとした腕が、自身の半身に絡みついている。その影の大元を追うように顔を動かすと、そこには体の至るところが異様に伸びている子どもたちが、まるで木のように壁や床から生えていたのだった。
「─────ひ、!!」
皆一様に同じ顔で同じように嗤い、私の体を少しずつ壁側に引き寄せていく。辛うじて原型の分かる口元からは「遊ブ? アソブ?」と寒気のするような音を発しながら肌を削っていく。
引き摺られないよう足に力を入れるものの、信じられない程の力で壁に叩きつけられ、体を起こした時には既に半分程壁に飲み込まれかけていた。
「い、いや……! いやだ! 誰か! 誰かああ!!」
天井の照明が激しく明滅する中、廊下の暗がりに見たことのある影を見つけた。それは顔も表情も分からないが、相変わらず私を覗き込むようにしてにやにやと笑っている。
「影浦く───」
手を伸ばしたところで、私はとぷん、と静かに壁に飲み込まれ───。
小さく明滅を繰り返していた照明は、数回の明滅の後、何事もなかったかのように元の明かりを照らし始めた。
壁際には片方だけの靴が所在なさげに転がり、あたりはいつもの静けさが、いつものように広がり続けている。
コメント
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ああ、この第14話、すごく怖かったです……! 最初は文化祭の準備で残る先生たちの日常が丁寧に描かれていて、ほのぼのした空気だったのに、ノイズ音から一気に不気味な方向に引きずり込まれる感じがたまらなかったです。「遊ブ? アソブ?」って子どもの声なのに機械的で、あの狂気が本当に恐ろしかった……。五十嵐先生が過去に体験した“あの気味の悪い記憶”が、まさかまた現実になるなんて。壁に飲み込まれる直前、影浦くんらしき影を見つけたところで切れるのも、続きが気になって仕方ないです!
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#短編
水底 ずい
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