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氷山の全体が露わになったような巨大な白雲が青い空に浮かんでいる。空の青海原をのんびりとゆっくりと西から東へと流れている。地上からそれを目に留める者は数多くいるが、地上の些事にかまけて気にする者はおらず、目で追う者はもっといない。そして雲の中へと飛び込もうなどというものはまずいない。
一見午睡に勤しむ穏やかな獣のような長閑な雲だが、その内では混沌極まる複雑な気流が渦巻いている。というのも豪壮な肉体を誇る神秘の生物、天の供物が雲に合わせて飛翔しているからだ。
もしも雲がなく、その姿を遠くから眺められたなら、ハイヴンドナーはまるで太陽が翼を得たかのような比類なき巨体の銅色の鷹のように見える。その翼は山々に影を落とし、その鉤爪は半島の果ての灯台をも掴み、持ち上げ、その嘴は象さえも丸呑みにし……。しかしすぐそばで子細に観察したならば巨大さなど些細な事柄に過ぎない異様な風体だと分かる。本来ならば密林のように生えているべき軽やかな羽根ではなく、代わりに生えているのは翼だった。嘴の際から尾の先までびっしりと覆った翼が羽ばたき続けている。では、その翼を覆うのは何か。これもまた翼だ。そしてその翼に生えているのもまた……。それは嘴や鉤爪、目玉においても変わらない。無限小で構成された想像を超えた生物。地上において知る者の限られる、古より神秘の生を営む霊的被造物だ。
雲を纏うハイヴンドナーが夢の中の夢の中の夢の中の……から目覚めると、訪ねる者があった。恐れ知らずの卑小なそれはハイヴンドナーの嘴の上、両の目の間に着地する。二足歩行の人のようであり、六本脚の虫のようでもある。体が杉材で出来ているちぐはぐの奇妙な存在だ。両眼には青い火を灯し、両腕は蟷螂のような鎌を備えている。残りの四脚の内、二つは人間の手のようだが、二つは山羊の脚だった。
「少し失礼しますよ。はじめまして。わたくし占う者と申します。不思議な雲が浮かんでいるなと思ったので好奇心に身を任せてやって来た次第でございます」
ハイヴンドナーはちらりとマイノマイノに目を構成する目を構成する目を構成する……を向けたが、ほんの少しするとまた嘴の先の真っ白な雲の壁を見つめ、人にまだ知られていないどこより静かな湖畔の如く黙して飛び続ける。
「わたくしとお話したくはありませんか? わたくしの方は貴女様に興味津々なのですが」
「暇潰しくらいにはなるかねえ?」
ハイヴンドナーの声がどこかから響く。それは嘴の奥でも舌先でもなく、山脈の如き巨体の全体から発せられていた。
「それはもちろん、わたくしの占いで……。お暇なのですか? どちらへいらっしゃるので?」
「どこにも。あたしはただ飛び続けるのさ。世界の終わりまで、この雲の巣の中で」
「お腹が空きはしませんか? といっても差し上げられるものもございませんが」
「たまあに一番星を啄むが、それで十分なのさ」
「それはまた……。ま、ともかくわたくしの自慢の占いで暇を潰して御覧にいれましょう。そして代わりにわたくしに貴女様について教えてくださいな」
「あたしは占いなんぞ信じやしないがね」
「おやおや、まあまあ、そう言わず一つ試してみようではありませんか。ではまず、宿命の占術を試してみましょうか。いわゆる占星術や数秘術。生誕時の星の配置や生年月日から計算に基く占いです。というわけでまずは生年月日を教えてくださいますか?」
「最も古い暦の定められる前だよ。生まれてから今まで太陽が昇った数なら覚えているけど」
「十分です。計算すれば何とかなりましょう」
マイノマイノは両腕の鎌をふらふらと揺らしながら、ハイヴンドナーの生まれた日を求め、星の配置と誕生数を見比べる。宇宙の初めから終わりまでの決定された秩序の流れを読み解こうと頭を捻る。そして満足した様子で頷くと両目の炎から火花を散らす。
「なるほど。これは数奇な運命を背負っておられるようですね。そして波乱に満ちた生をお送りなさるようだ。古い昔には大いなる怪物どもとお戦いになった。勝ちもし、引き分けもしたが、負けはしなかった。素晴らしい! しかし、同じくお仕えになっていた主を裏切った者がいた。裏切りの誘いは跳ね除けたが、主を助けることは出来なかった。それ以来、こうして飛び回っていらっしゃる、と。恥故に? あるいは罪悪感? しかしずっと飛び回っていたいわけではありませんね。ただ地上におりて人々を怖がらせたくないから空を選んだ。貴女様は良いひとです。一方で、自分自身これからどうするべきか何も分からないご様子。だから貴方様は何もしないことを選んだ」
占いの半分を過ぎた頃からハイヴンドナーは火砲の如き視線の束ねられた視線の束ねられた視線の束ねられた……弾幕の圧力でマイノマイノが吹き飛びかねないほどに睨みつけていた。しかしマイノマイノは怯むことなく占いきった。
「誰にでも当てはまることだね」
「……そうですか?」
「それに全体的に抽象的だ」
「それは否めません」
「占いは終わりかい?」
「いえ、今の占いでもう一つ、少し先のこともお伝えしましょう。そうしてずっと飛び回っていた場合はいずれ、かの裏切者に見つかり、今度はそいつに仕えさせられますね」
「凶兆だね。最悪だよ」
マイノマイノはそわそわとして何かを待つが、ハイヴンドナーはその揺らぎに何かを見出そうとしているかのようにじっと雲を見つめており、待ちきれずに口火を切る。
「ではこれから何をすれば良いか、占って差し上げましょう」
「あたしに指図する気かい?」
「滅相もございません。これは忠告、いや助言にございますれば、ご参考になさるかどうかは貴女様のご自由になさってくださいませ」
「まあ、いいや。それで次は何を知りたいんだい?」
「いえ、今度はお手を煩わせません。偶然の占術を使いましょう。いわゆる札占いや賽子を使った占い。御神籤なんかもその一種ですね」
「好きにしなよ。それで奴に仕えずに済むなら何だっていいさ」
マイノマイノは指の五つ揃った二本の人間の手でハイヴンドナーの嘴の上に札を並べ、賽子を振り、ついでに籤も引く。決して決まりきっていない宇宙の混沌の澱みを掬い取ろうと目を凝らす。そして満足した様子で頷くと両目の炎から火花を散らす。
「出来ることは沢山あります。その先にはやりたいこともやりたくないこともあります。生き残りの怪物たちに引導を渡すもよし。行方知れずの主を探すもよし。裏切者に復讐するのもまたよし。ですがわたくしからお勧めするのは旅に出ることですね」
「旅?」とハイヴンドナーが口を挟む。「思ったよりもつまらない占いだけど、何より、これだって旅だろう?」
「いえいえ、こんなものは旅とは言えませぬ。わたくしがお勧めしているのは見たことのないものを見て回ることでございます。天に至る都市。地の底の神秘。海の底の驚異。他を知り、己を験すのです」
「それが何だって奴に仕えずに済むっていうのさ」
「要するに、今のままではかの者に仕えることになってしまうのです。その未来を変えたければ変わる他ありません。大きく、劇的に、貴女様自身が」
「それで? 旅をしたらどうして変わるんだい? 具体的にどこに行って何を観ればいいんだい?」
マイノマイノはさらに札を操作して、ハイヴンドナーの未来を読み取る。
「少しずつ変わるのです。たった一度の出来事で大きく変わることなど滅多にありません。素晴らしい景色を眺め、素晴らしい人々に出会うのです。あるいは道程の半ばには恋人に出会うとも示唆されていますよ」
「恋!?」
ハイヴンドナーの全ての翼の翼の翼の……がざわめき、背徳の都を滅ぼした大嵐にも劣らない風を巻き起こした。マイノマイノが嘴の上に並べていた占い道具は全て吹き飛び、雲の向こうへと消えてしまう。
「もちろんです! 良かれ悪しかれ、恋はひとを変えるもの。貴女様の運命は掻き乱されることでございましょう」
「馬鹿な! あたしみたいなのが他にいるわけないだろう!? いや、いるよ。いたよ。奴と奴と奴と奴と奴だ。だけどどいつもこいつもいけ好かない連中さ。連中もまたあたしを含め、他の連中を同じように思っているだろう。世のどこにこんな醜い怪物に……。あ、あ、あたしに恋する馬鹿がいるってんだい!」
「おやおや、随分とお馬鹿なことを仰る。貴女様と同じである必要などありませんし、もちろんおられますとも、貴女様に恋する御方が。そして、そんなことはどうでも良いのです。何より肝心なことは貴女様が恋をするということです。でなければ変わりやしませんよ」
ハイヴンドナーは目を瞑り、世界の隅々まで響くという大鐘楼の如き声で呟く。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。こいつは嘘をついている」
「お相手についても占って御覧に入れましょうか?」
ハイヴンドナーはたっぷりとした沈黙をとる。
そして消え入りそうな小さな声を震わせる。「……分かるの?」
「お任せください。さて、占い道具は飛んでいってしまったので、次は形象の占術を使うことといたしましょう。いわゆる手相や顔相など貴女様ご自身や関連する物の形や様相を読み解く占いですね。とはいえ、この世に一羽しかいない生き物の相を読む体系が存在するわけもなし。となると何か人間と共通する何か……そうだ! 最近夢は御覧になりましたか? わたくし、夢占いも心得ておりますので」
「ああ、見るよ。ついさっき、あんたが来る前までも夢を見てた」
ハイヴンドナーが返事を待っているとマイノマイノに身振りで続きを促される。
「たまに見る夢だ。雲の巣を降りて、下界を眺める。山とか海とか丘とか川とか。それで決まってあたしは飛んでいる内に疲れる。飛ぶことに疲れたことなんてないのに。すると塔や大木が見つかって、あたしは羽根を休める。そうしてただじっとしていると麓に人間が集まる。人間は大概やかましく争っているから、黙れと一喝すると静かになる。……そういう夢だ。これで何が分かるんだい?」
マイノマイノは満足した様子で頷くと両目の炎から火花を散らす。
「その塔や大木が恋人ですね」
「あんた適当なことを抜かすようなら――」
「いえいえ、お待ちください。真面目な話ですよ。貴女様が求めているのはまさに身も心も休まる止まり木のようなひとだということです」
「あたしは疲れやしないんだよ」
「今のところはそうなのかもしれませんね。でもきっと、ずっとそうではないのです。貴女様もわたくしも、休みたくなる日が来るのでしょう」
ハイヴンドナーは空を飛び続けながら、夢とマイノマイノの言葉とを繰り返し思い浮かべる。
「ではわたくし、そろそろお暇しようかと。お元気で」とマイノマイノは鎌を振る。
「ああ、そうかい。ありがとうね。あんたの占い、……参考にするよ」
「ええ、それも善御座」
ハイヴンドナーはじろりとマイノマイノを睨む。
「何だい、その言い草は。あんたの占いだろう」
「その通りでございますが、わたくしの座右の銘は『合うも不思議合わぬも不思議』でございますれば」
「……どういう意味だい?」
「平たく言えば、占いなんて気にするなってことです」
そう言うとマイノマイノは嘴の端から飛び降りて雲の向こうへ消えていった。