テラーノベル
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私は、父から譲り受けた古い腕時計の文字盤を見つめながら、数秒間の沈黙を置いた。夜の住宅街は、事件の喧騒が嘘のように冷え切っている。
「実は……。私がまだ小学生だった頃、誘拐されたことがあるんです」
柊さんは歩みを止めず、ただ耳だけをこちらに貸すように少し首を傾けた。
「身代金目的じゃありませんでした。警察官だった父に恨みを持った犯人が、復讐のために私をさらったんです。……狭くて、暗い場所に閉じ込められて、いつ父に会えるのか、それともこのまま消えてしまうのか……。あの時の恐怖と、吐き気のするような絶望は、今でも体の奥底にこびりついています」
私は、拳をぎゅっと握りしめた。
「なんとか助け出されましたが、その経験があったからこそ、子供の無垢な心を自分の欲のために利用する誘拐犯だけは……絶対に許せなかった。佐藤のあの卑屈な顔を見た瞬間、理屈じゃなく、体が動いてしまったんです」
「……なるほど。復讐の道具にされた記憶、か。それは正義の重みを知る君にとって、何より許しがたい行為だったわけだ」
柊さんは立ち止まり、街灯の下で私の顔をじっと覗き込んだ。その瞳には、いつもの冷徹な分析ではなく、少しだけ温度のある光が宿っていた。
「自分の過去を動機に変えて、目の前の命を救う。……君はやっぱり、僕のような嘘で生きる人間とは正反対の場所に立っているね、南さん」
「……明日からどうなるかは分かりません。謹慎か、最悪の場合は免職か。でも、後悔はしていません。……柊さんと組めて、よかったと思っています」
私は少し照れ臭くなり、視線を逸らした。
「柊さんも、自分の事件……あの止まった時間の解決、頑張ってくださいね。私に手伝えることがあったら、いつでも言ってください。……謹慎中なら、時間はたっぷりありますから」
柊さんはふっと口角を上げ、ポケットに手を入れたまま、夜の闇を見つめた。
「僕のことは心配しなくていい。詐欺師は闇に紛れるのが得意だからね。だが、南さん……君が今日、犯人に向けたあの銃口は、一人の子供の世界を救った。その真実だけは、どんな審議会でも否定できない」
彼は一度だけ私の肩を軽く叩き、駅の方へと歩き出した。
「しばらくは小宮さんの説教に耐えるよ。……君のいない捜査現場は、少しだけ退屈になりそうだ」
「……柊さん、それって私を頼りにしてるってことですか?」
「内緒だよ」
彼は振り返らずにひらひらと手を振り、雑踏の中へと消えていった。
私は、自分の胸に深く響いたその言葉を反芻しながら、夜空を仰いだ。冷たい空気の中、遠くでパトカーのサイレンがかすかに聞こえた。真実を暴く痛みを知りながらも、私はまだ、この世界で、自分なりの正義を探し続けたいと思っていた。
だけど、柊さんに全ては話せなかった。もし全部を話していたらどうなっていたのだろう。このまま秘密にしておくべきか。
誘拐された時、私がこの手で犯人を殺したということを伝えるべきだったんだろうか。
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