テラーノベル
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予想通り、謹慎処分が下された翌日。私は自宅の薄暗い部屋で、ただ天井を見つめていた。先日、柊さんに「自分も誘拐されたことがある」と明かした。だが、その結末だけは、どうしても口に出せなかった。
あの時、私は助け出されたのではない。
十歳の冬。下校途中にさらわれた私は、どこかの廃屋で手足を縛られていた。
犯人の顔はよく覚えている。父に逮捕され、人生を狂わされたと喚き散らしていた、薄汚れた男。
数日が過ぎ、極限状態だった私に、男はコンビニのサンドイッチを差し出した。
「食え」
それだけ言い、縄を解かれた瞬間、私は全神経を指先に集中させた。
男が袋を開けようと視線を落とした刹那、私は渾身の力を指に込め、彼の両目を突いた。
「ぐああっ!?」
狼狽える男。私は這うようにして、テーブルの上にあったナイフを掴んだ。脅すために使われていた、剥き出しの刃。
激昂した男が視界を奪われながらも、私を押し潰そうと覆い被さってきた。
その時、男が足元の瓦礫に躓いた。
どさりと、重い衝撃。私の小さな手の中にあったナイフが、男の体重に押されるようにして、その胸元へ深々と沈み込んでいった。
「……っ」
抵抗する感触。それから、抵抗がふっと消える、おぞましいほど滑らかな感覚。私の顔に、男の吐息と、生暖かい飛沫が散った。
あれから二十余年。警察官としての正義を背負っている今でも、あの瞬間の、肉を裂く感触だけは、掌の奥で脈打つように残っている。
「……はぁ」
ブルルッ。
自分の掌をじっと見つめていると、不意に枕元のスマートフォンが震えた。表示された名前は——『柊 渡』。
「……もしもし」
『やあ、南さん。長期休暇の初日はどうだい? 部屋の隅でカビの数を数えてるんじゃないかと心配になってね』
受話器越しに聞こえる、相変わらずの軽薄な声。私の暗い沈黙などお構いなしに、彼は言葉を続ける。
「うちにカビはないです」
『君がいなくて、小宮さんの小言が全部僕にスライドしてきてるんだ。このままじゃ僕の繊細な神経が参ってしまう。……どうかな、人生の迷い子の人生相談に付き合わないか?』
「人生相談って、私のですか? 特に相談したいことはないです」
「僕の相談に乗るんだよ」
「……この状況で、私が相談に乗るんですか? それに、ただのデートのお誘いに聞こえるんですけど」
『おや、察しがいいね。ちょうど君の鼻を満足させられそうな、魅力的なビストロを見つけたんだ。……家にこもってばかりいないで、少しだけ遊びに来ないかい?』
柊さんの声には、私の内側の闇を、あえて土足で踏み荒らして明るく照らすような、不思議な図々しさがあった。
「……謹慎中の身ですよ、私は。外で派手に遊ぶわけにはいきません」
『だからこその、隠れ家的レストランさ。……それとも何だい? 僕の隣にいるのが怖くなったかな。僕が君の秘密まで暴いてしまうのが』
心臓が、跳ねた。彼には、私が何を隠しているのか、もう見えているのだろうか。私は、まだ指先に残っている気がするあの日の感触を振り払うように、深く息を吐いた。
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