【廿話】
夜が明けて鳥が鳴く。
使い慣れない手洗いで顔を洗うと淀んだ記憶が鮮明に透き通った。
鏡越しに見る自分の顔は酷くくすんでいて、年よりも少し老けて見えた。
ぼさぼさとだらしなく乱れる髪を油で撫ぜ付け纏める。
毎朝の儀式。いつも気分を切り替える為にそうする。
いち人間から教諭の顔に無理やり変える儀式。
今日は教諭に変えた後の自分の顔でさえ奇妙な混沌を見せていた。
髪は撫で付けられ教諭たる整然さを持った。
だがそれを乗せている顔は――頼りなく感情に揺さぶられる只の人間だ。
夕べの騒動。空気を劈く様な叫び声。余りの異様さに駆けつけた彼女の部屋は零れた味噌汁が廊下まで流れ、握り飯は粒をその軌跡に残し転がっていた。
悪鬼の如く暴れる彼女を俺と樋口で何とか押さえ込んだ。
想いはともかく体だけは。
蒼井さんは頬を押さえ倒れていた遙さんを背に庇い、我が目を疑う様な顔をしていた。そして野々村はと云うと蒼井さんの背に庇われた彼女に手を差し伸べながら何かを尋ねて居た様だった。
その一連の流れはまるで止める事も出来ずはらはらと散り行く
櫻の崩壊の様に見えた。
嗚呼、崩れて行く――
諸行無常を形に表し煙の様にけぶる花弁の様に
姿を崩して去っていってしまう。
何処へ――
全てがゆっくりとした動作に見えた。
酷く現実味を欠いた場面に見えた。
それが自分に掛かる精神的圧力を回避すべく自らの脳が出した迂回策である事位分かっていてもその事実は変わる事は無かった。
自分と他の物との距離が酷く遠く感じる。
対他人も然りだ。
まるで世の中に自分一人しか存在せずに目の前に並べられた
映画のスクリーンに映る世界を見せられている様な感じだ。
自分が登場人物である事が嘘臭く感じた。
きっと私達が此処に来なければこの家族の中で起きた事は
事件として成り立ち得なかったであろう。
まるでシュレディンガーの猫だ。
我々は無神経にも此処に招かれ、何も分からずに
開けてはならぬ箱を開けてしまったのだ。
生死定かでは無い事実(猫)が在るばかりの箱は開けられなければ生も死も決定される事は無かったのに。
有耶無耶の二択がその中に蕩うだけだったのに
観測者が居た為に事件となる事は避けられなくなってしまった。
野々村の云う様に私は遙さんに酷く同情の念を寄せている。あの様子から彼女に何も無かった事は考え辛い。偏った思考は判定を狂わせる。
狂った判定はこういった不安定の場では誰かに致命傷を与えかねない。野々村の主張は恐らく正しいのだろう。
顔を洗い終わり、手拭いで拭く時に初めて件の少年が背後に立っていた事に気が付いた。いや、青年か。彼の顔は向きに寄って酷く幼く見える時が在るから少年、の方が合う様に思えた。
とりあえず後ろには野々村が居た。
「お早う御座います――」
「お早う。今日は如何――」
「朝ごはんを頂きましょう。そして日下部さんを待ちましょう。話はそれからです。」
「ああ――」
彼を洗面所に残し、服を着替えた。
廊下から庭を見る。開け放たれた格子窓から風が吹き込み、外の空気は露で湿って体に纏わり付く様に感じた。
少し肌寒い。それもその筈、まだ五月だ。
私は部屋に戻り、上に薄手の防寒着を羽織り居間へ移動した。
「お早う御座います。」
きちんと整えられた着物を身に纏い遙さんは頭を下げながら居間に入ってきた。手には茶盆を乗せている。
「お早う」
不自然な笑みを浮かべ彼女は私に茶を入れてくれた。
彼女の目は少し腫れあがり、夜通し泣いていたのがありありと伝わり
私は思わず瞳を閉じた。
「今日は貴方にとって辛い一日になるかも知れません。」
「ずっと――辛く無い日など在りませんでしたわ。」
「怖く――無いのですか?」
「今までの様な日常が再び来る事を考えたら、
安らかに痛みを受け取る事が出来ますわ。」
酷く胸が痛む。
「私は貴方の心を救いに来たのに、何もお話してませんね」
「救って下さってますわ」
「貴方に笑顔を取り戻させたのは野々村ですよ」
私は思わず苦笑する。事実私が役に立った訳では無いからだ。
「楽しかった昔を思い出して辛くもなりましたけど――」
言葉の抑揚に悪意は感じられなかった。私は只、相槌を打つ様に頷いた。
「望んだ事なのです。全て私の。だからこれで良いのです。こうで無いといけないのです。だから――私は桂子に助けを求めたのです。」
彼女は茶卓の上に置いていた手をぐっと握り締めた。
不意に幾つかの足音がした。木の軋む音が一々物々しかった。
「お早う」
「お早う御座います。」
「お早う御座います。今日はお食事のお手伝いでも――」
須藤さんが遙さんに指示を請い、その背後で蒼井さんが同じく、と云わんばかりに頷いた。野々村はそ知らぬ顔で私の前に座った。
「あ、須藤さん、今日も一緒にここで食べて下さいね。」
「え?」
「お母様にそう伝える様に言われましたの」
何かを察したのか老人は悲しげに頷き、
「そうか――」とうわ言の様な言葉を発した。
何台もの車の音がした。暫く間を開けて玄関の扉が開いた。
誰も見に行かない。とっくに予想は付いているのだろう。
そして彼の向かえなど待たずに居間に来た。
「お早う御座います。」
皆が口々に日下部に朝の挨拶をする。
日下部の目の下には隈が出来ている。
此処まで往復で六時間、その上調べるべき事は多数在る。
きっと寝て居ないのだろう。
私は目の前の茶盆から空いている湯飲みを取ると
茶を満たし、彼に渡した。一応労いのつもりだ。
彼は人懐っこい笑顔で受け取ると一口飲み、
「樋ぐっさんは何処に?」と神妙な顔をして聞いた。
「母と土間に――」
遙さんはそちらを指差した。彼は彼女の指の方向に一瞥をくれると
「そうですか――」とだけ言い、私の背後に膝を付くと
「失礼――」と回りに断る様に片手で拝み私に耳打ちをした。
「あれ、当たりでした。」
【続く】
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