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「ったく、お前もバカだなあ」
差し出されたビールに手を伸ばしながら、つい愚痴が出た。
「徹、もういいわよ。いい加減やめて」
うんざりした顔をする麗子。
ここは麗子の母さんが営むバー。
俺は、このところ週2のペースでここに顔を出している。
麗子が誘拐され、孝太郎が救出してから1ヶ月。
麗子は、最後まで誘拐されたとも、監禁されたとも言わなかった。
こいつは一体何を考えているのかと腹立たしくも思ったが、その頑なな態度のお陰で事件は大事にならずにすんだ。
もちろん、麗子はケガをしたし、縛られ拘束されているのを俺たちも警官も目にした。
倉庫も孝太郎によって破壊されてしまったし、何かあったのは一目瞭然なわけだが、「私が三島さんを誘った」「自分の意志でここへ来た」「訴えるつもりはない」と言い続けられれば、打つ手がなかった。
「結局、お前1人が貧乏くじを引いたんじゃないか?」
体を傷だらけにして、怖い思いをして、何の得があるって言うんだ。
「私が良いんだから、放っておいて」
口をとがらせ俺のビールを注ぐ麗子の腕が、さらに細くなった気がする。
「ちゃんと食べているのか?」
たった1ヶ月の間に、また少し小さくなった。
「大丈夫よ。そのうち元に戻るから」
「そうか」
それなら良いが。
***
「孝太郎とは、会ってないのか?」
お前ら、好き合ってたはずだよな。
「ええ。病院で会ったのが最後よ」
何でもないことのように、麗子は答える。
ッたく、2人とも意地っ張りだな。
どうしてこんなにまどろっこしいんだか。
あの日、救出された麗子は病院へ運ばれ診察を受けて入院することになった。
幸い骨折はなかったが、打撲と切り傷はかなり酷かった。
その上水をかけられたまま1日過ごしたせいで熱が出ていて、かなり弱った状態。
診察した医師の判断でママが呼ばれた。
「麗子、何でこんな目に・・・」
言葉を詰まらせるママに、
「申し訳ありません」
孝太郎が深々と頭を下げる。
「お前のせいじゃないだろう」
見かねた俺がいくら言っても、孝太郎はピクリともしない。
「すべての責任は俺にあるんです。申し訳ありません」
いつも強気で決して弱いところを見せることのない孝太郎の姿に、俺も言葉に詰まった。
孝太郎は、今回の件の責任を感じている。
自分が麗子を傷つけたと思っているんだ。
「専務さん、頭を上げてください」
ママの何度目かの言葉で、孝太郎はやっと体を起こした。
***
「専務。もういいですから、帰って下さい。私は大丈夫です。母に付き添ってもらいますから」
点滴を打たれおでこに冷却シートを付けたまま、体中傷だらけの麗子が、真っ直ぐに孝太郎を見る。
「俺もつきそうよ」
いくら孝太郎が言っても、
「ダメです。帰って下さい」
麗子は引かなかった。
「心配なんだ。側で見ていないと、心配でたまらない」
必死で訴えるが、
「お願いですから帰って下さい。専務の側にいると・・・私が辛いんです」
「麗子?」
「思い出して苦しくなるんです。もう忘れたいんです。だから、帰って下さい」
最後は孝太郎に背を向け、布団に潜ってしまった。
ここのところ、『孝太郎』と名前で呼ぶようになっていた麗子の呼び方が、『専務』に戻っていた。
意識してなのか無意識なのかはわからないが、この呼び方1つで2人の間に距離があることを感じさせた。
この日から、麗子は孝太郎のことを拒絶するようになった。
毎日のように訪れる孝太郎に会おうともせず、面会も拒み続けた。
しばらくして、孝太郎の方も麗子に近づかなくなった。
とは言え、孝太郎の気持ちが麗子から離れていったわけではないと思う。
孝太郎からすれば、自分が側に行けば麗子は事件を思い出すし、自分が近くにいる限り麗子を苦しめることになる。
もう2度と麗子を傷つけたくはない。それが孝太郎の本心のはずだ。
***
「これからどうするつもりなんだ?」
俺は、カウンターの中で洗い物をする麗子に聞いてみた。
「どうもしないわ。このままよ」
このままって、
「お前はそれでいいのか?」
麗子だって孝太郎のことを嫌いになったわけじゃないだろう。
そもそも、今回の件の被害者は麗子だ。
傷つきボロボロになって、それでも被害を訴えないのは、ただ『思い出したくない。一刻も早く忘れたい』それだけではない。
事件を穏便に終結させる事によって、鈴森商事の受けるダメージを押さえたい。そう思ったから口を閉ざしたんだろう。そして、それは最終的に孝太郎のため。
麗子もまた孝太郎を思って身を引こうとしているんだ。
「孝太郎との関係は別にしても、お前の秘書としての働きぶりは評価が高いんだ。俺としては戻ってもらいたいんだがな」
嘘ではない。
今回の件については、麗子のお陰もあって大きな事件にはならなかった。
事の詳細を知るのは、この件に関わった当事者と社長以下一部の上層部達。
当然、秘書課の人間も麗子の活躍を知らないわけだが、それでも、「青井さんがいなくなって仕事の負担が増えた」と不満の声が上がってきている。
いなくなって初めて、麗子の優秀さに皆が気づいたようだ。
「今さらどんな顔して戻るのよ」
ちょっと馬鹿にしたような自嘲めいた声。
「どんなって、そのままでいいさ。元々、長期休暇って事になっているし」
「はああ?」
驚きで、口を開けたまま麗子が固まった。
だよな。でも、事実なんだ。
麗子の辞表は孝太郎が持ったまま、今はまだ長期休暇の扱いになっている。
***
「なあ、麗子」
残ったビールを一気に流し込んでから、俺は少し真面目な顔で話しかけた。
「何よ」
不満そうに俺を見る麗子。
「状況は変わったんだ。河野副社長は依願退職の形で会社を去ったし、三島さん達関係者も会社を離れた。もう今回の件に関わった人たちはいないんだ」
「だから?今さら私にどうしろって言うのよ」
その挑戦的な視線は、10代の頃の尖っていた麗子を思い出させる。
「戻ってきて欲しい」
鈴森商事にはお前のスキルが役に立つし、何よりも孝太郎にはお前が必要なんだ。
「その話は何度も断ったはずよ」
「お前は孝太郎を見捨てるのか?」
「え?」
一瞬、麗子の手が止った。
「彼に何かあったの?」
さっきまでの眼力は消え、心配そうに視線が泳いだ。
「元気だよ、とても。でも、それは表面上だ。お前がいなくなってから休む暇もなく仕事をしている。河野副社長が抜けた分忙しくなっているのも事実だが、見ているこっちが不安になるくらい仕事に没頭している」
「大丈夫なの?」
「そのうち倒れるんじゃないかと心配はしているが、言って聞くような奴じゃない」
そのことは、麗子が一番分かっているだろう。
「それはそうだけれど・・・」
「心配なら、お前が戻って止めてくれ」
それが一番いい方法なんだ。
「でも・・・」
やはり、すんなり頷いてはくれないらしい。
***
「そんなに困った顔をするな。俺は麗子を困らせるためにここへ来たんじゃない」
数分間の沈黙の後、俺の方が口を開いた。
俺にとって、麗子も孝太郎も大切な友人。
どちらにも幸せになってもらいたいんだ。
「徹が心配してくれているのは分かっているわ。本当にありがたいと思う。でも、私は鈴森商事に戻る気はないの」
「鈴森商事にって言うより、孝太郎の元にだよな?」
「そうね」
あれ、以外にすんなり認めた。
「このままじゃらちがあかないから、この際はっきり言うわね」
持っていたグラスを置き、麗子が俺の方を見た。
「私は彼のことが好きだった。何にでも誠実で、手を抜かなくて、不器用なくらい真っ直ぐに向かっていく姿勢に心が動かされた。この人のために何かしたいと思った。だから、危険に飛び込むような行動を取ったの。そのことに後悔はない。すべては自分で決断したことだもの。でも、」
そこまで言って、麗子の言葉が止った。
「でも?」
恐る恐る、先を促してみる。
「私はあの時、どんなことをしても河野副社長の陰謀の証拠が欲しかった。だから、三島さんの取引に乗ったの。『情報が欲しければ、今夜一晩僕に付き合ってください』と言われて、私はその意味を理解した上で受け入れた。その時、私はもう孝太郎の元を離れる決心をしたわ。だから、どんなに言ってもらっても、鈴森商事に戻るつもりはありません」
「麗子、お前・・・」
さすがに、絶句した。
気の強い、頑なな女だとは思っていたが、凄いな。
想像の遙か上を行く。
でも、
「それは、孝太郎を思っての行動だろ?」
「・・・」
麗子は返事をしなかった。
***
「私はあの日、彼を裏切ったの。だからもう元に戻るつもりはないわ。終わったことなのよ」
「それで、いいのか?」
そんなことで、お前達の気持ちに整理が付くのか?
2人とも致命的に不器用なことは分かっているが、このままで本当に後悔しないんだろうか。
「ええ。実はね、あの後社長と、奥様からも連絡をもらったの」
「社長から?」
「うん。会社のために働いてくれたのに、申し訳ないと頭を下げられたわ」
「そうか」
社長には河野副社長の事は報告したし、孝太郎からも事情を聞いたんだろう。
「だから、もういいの。しばらくここでバイトをして、半年くらいたったら働きに出るわ。もう逃げないって決めたから、もう一度やりたい仕事を探してみる」
そのはっきりした口調から、麗子なりに決心しているんだと感じた。
孝太郎は麗子のことが好きで、だからこそ麗子を傷つけてしまった自分が許せないでいる。
麗子もまた孝太郎のことが好きで、だからこそ自分は孝太郎にふさわしくないと思っている。
端から見ればもどかしくてじれったい2人だが、ここまでこじれた糸を解くのは容易でない。
さあ、どうしたものかな。
「ああ、そうだ」
急に何かを思い出した麗子が、紙包みを持って現れた。
ん?
「悪いけれど、これを返しておいてもらえるかしら?」
「何?」
首をかしげた俺に、紙袋の口を広げてみせる麗子。
えええ?
俺は、出そうになった声を手で押さえた。
***
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
ママの店に行った翌日、俺はいつものように専務室へ挨拶に来た。
「今日の午後からの視察に、私は同行できませんが誰か付けましょうか?」
麗子がいなくなってから専務の専属秘書は不在となり、秘書課の女性達でスケジュール管理と資料の作成などの雑務をこなし、外出や会議はできるだけ俺が同行することにしていた。
しかし今日は、社長の外出と重なって同行できそうにもない。
「いいよ、1人で大丈夫だ」
やっぱり、そう言うと思った。
本当は誰か同行するべき何だが・・・
「心配するな、1人で大丈夫だ。それより、あいつの所に行ったんだろ?」
チラリと、俺の顔を見た孝太郎。
「ああ」
プライベートな話に切り替わったせいか、ついタメ口に戻ってしまった。
「どうだ、変わりないのか?」
「だいぶ細くはなっていたが、元気だった」
「痩せたのか・・・」
肩を落とし天を仰ぐ姿は、心配の表れだ。
そんなに心配なら、自分で会いに行けばいいんだ。
俺が店に行く度に、『どうだった?元気だったか?』と聞くくらいなら、自分の目で確かめる方が早いだろう。
「もう1ヶ月も経つのにまだ体調が悪いんなら、病院へ行った方がいいんじゃないだろうか?もしかしてどこか悪いところでも」
「フッ、違うよ」
あまりにもトンチンカンなことを、当の本人から言われて笑ってしまった。
「じゃあ何だ?」
こいつ、本気で聞いているんだろうか?
「ああー、お前とこの話をすると脱力してくる。座っていいか?」
「ああ」
朝の忙しい時間なのは分かっていて、俺は専務室のソファーに腰を下ろした。
***
「ママの話だと、麗子の奴最近あまり寝られてないらしい。そのせいで食事も進まないらしくて、ママも心配して」
「やっぱり、どこか悪いところでもあるんじゃないのか?」
俺の言葉を遮るように身を乗り出してくる孝太郎。
麗子のことが心配でどうしようもないのはよくわかるんだがな。
その気持ちがお互いに一方通行しているのが問題だ。
「違うと思う。一番はストレスじゃないか?」
「ストレス?」
「ああ。あれだけの怖い思いをしたんだから、しばらくは調子も悪くなるだろう。それに、」
「それに?」
問い返された言葉を聞いて、俺は孝太郎の顔を見た。
「なあ、孝太郎。お前はこのままでいいと思っているのか?」
「どういう意味だよ」
はあー。こいつどこまで鈍感なんだ。
「麗子との関係が終わってもいいのか?」
「しかたないだろう」
言ったきり、プイッと視線を外した。
その態度に、俺の方がイラッして、
「じゃあ、早く後任の秘書を付けろ。麗子の近況もいちいち聞くな。俺はお前の使いっ走りじゃない」
少しだけ声が大きくなってしまった。
「分かった。秘書はいらない。お前が忙しいなら外出の同行も着けなくていい。1人で行く。それに、麗子のことも・・・」
強気で言い出した孝太郎だが、麗子のこととなって尻すぼみになってしまった。
「もういい。俺も言い過ぎた」
孝太郎が麗子のことを心配しているのは分かっている。
2人とも不器用なだけだと理解はしているんだが・・・
はあー。
自分を落ち着かせるために、深呼吸を1つした。
***
「孝太郎、お前は麗子のことが好きなのか?」
「ああ」
よし、即答だな。
「じゃあ、なぜ会いに行かない?」
「あいつが俺を拒否している」
まあ、確かにその通りだ。
「何か理由があるとは思わないのか?」
「それは・・・俺のせいで怖い思いをしたから。俺がいるとそのことを思い出すと言われた」
うぅーん、そこは少し違うな。
「彼女の言う事を信じるとして、そう言われたお前は麗子のことを諦められるのか?」
「・・・」
諦めきれないから、こうなったんだよな。
「もう一度、ちゃんと話してみろよ」
「しかし、彼女が」
まだそんなことを言っているのか。
「昨日だって、麗子目当ての客が何人もいたぞ」
「そうか」
「それに」
ポンッ。
俺は麗子から預かった紙包みを机に投げた。
「何だ?」
「見てみろ」
テーブルの上の紙包みを手にとり、中を覗いた孝太郎の表情が固まった。
「これは・・・」
「手切れ金の300万だ。おばさんが麗子の所に持って行ったらしい」
「・・・」
「麗子から、『返して欲しい』って頼まれた」
「俺は知らない」
「だろうな」
誰もお前の差し金だなんて思っていない。
「孝太郎。あいつは、麗子は友達のいない寂しい奴だ。いつも周りに裏切られて、いわれのない誹謗中傷にさらされてきた。俺が出会った頃のあいつは、刺々しくて、頑なで、いつも1人だった。だから、あいつの中で孝太郎は特別なんだよ。自分を犠牲にしても守りたいと思ってるんだ。おまえも、ちゃんと向き合ってやれ」
「分かった。母さんとも麗子ともきちんと話をする」
静かだけれど、凜とした声。
ホッ。
俺の言いたいことを理解してくれたようだ。
後は、麗子に一芝居打ってみるか。