テラーノベル
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「――ペチカ、入るよ」
優しいノックの音とともに部屋の扉が開かれる。ギィ、と音を立て、そして優しくぱたんと閉められれば、部屋の中はまた暗闇に包まれる。
「ペチカ。デートの話聞いたよ」
「……」
「俺も、からかいすぎちゃったね……ごめん。こんなふうに、傷ついて帰ってくるなんて予想もしていなかった」
「……お兄様が悪いのではありません。私が、要領がよくないから」
ベッドの上でうずくまる私にそっと毛布を掛けて、お兄様は、ベッドサイドに腰を掛ける。
あのデートの日、どのようにして家に帰ってきたかは覚えていない。ただ、たまたま帰省していたお兄様に見つかって、すでに事情を知っていたお兄様に問い詰められて部屋に逃げ込んでしまい、一日ほど。そうして、お兄様が謝罪にと来てくれたけれど、別にお兄様が悪いわけではなかった。
賭けに負けて、デートをして、殿下を傷つけて、傷ついたのは私なのだから。
「ペチカが、悩んでいるのは、ベテルのことだよね。バレたらだめだって。だから、ペチカである自分から遠ざけようとしている」
「……殿下は、一度戦場で裏切られたことがあったので、そこから、人が変わってしまったんですよね」
「……そうだね。あの時のことはっきり覚えているよ」
と、お兄様は、消えそうな声でそう言った。
殿下には補佐官がいた。それはもうすでに過去形であり、殿下としても思い出したくない記憶だろう。殿下が幼いころよりそばにいて、護衛としての仕事も両立していた優秀な右腕。しかし、彼は、ある戦争の途中で裏切った。もともと、その敵国との間に生まれた人間であり、皇太子を殺そうと送り込まれた人間でもあった。帝国の調査不足もあり、完全に信頼しきっていたこともあって、情報が流れていたことに気づきもしなかった。そうして、殿下は襲われそうになり、信じていたものに裏切られたショックから乱心。殺そうにも殺せないといった複雑な感情の所、お兄様がその補佐官を殺したと。本来であれば、生きたまま拘束し、情報を聞き出さなければならなかったが、やむを得なかったと。そのことはお兄様も少し責められていたが、その後立ち上がった殿下により戦場は一変、破壊と虐殺の限りを尽くし、戦争は帝国側の勝利で終わった。
お兄様はそこで、人が壊れる、生まれ変わる瞬間を見たといった。
「思い出すだけ怖いよ。もともと、あんなに気性の粗い性格じゃなかったし、ものに当たることもなかったんだけどね。補佐官に裏切られたことが、よほどショックだったみたいで、変わってしまったよ。ゼインは」
「殿下の人間不信は、本当に裏切った人、欺いた人を殺すほどの勢いですから。いくら、私とは言え、婚約者になったとはいえ、一人二役がバレればきっと命はないでしょう。そうなってくると、家門も心配です。お兄様のことも、信用できなくなって、我が家は没落なんてことも……」
実際に、現皇帝や一部の人間は、私が女であることを知っている。また、ベテルという人間が死んでいることも知っているのだ。そのうえで、目をつむり、許容してくれている。理由は、長く皇族に貢献し、そして、殿下の心をお兄様が救ったからだ。
騎士団の人間は、私を男だと思い、ベテル・アジェリットとして扱ってくれている。誰かにバレれば、すぐにでも殿下の耳に伝わるほど、危ない橋。けれど、お母様の言いつけを破ることはできなかった。
お母様は、皇族の親戚にあたる人間でもあったため、家の中でもかなり力を持っている。お父様にはかなわずとも、お母様の持っている力というのは権力だけではなく、魔法もだ。お兄様の魔法も、お母様譲りのもので、お母様の魔法は最悪人の精神を崩壊させてしまう魔法だ。だからこそ、癇癪を起して、魔法が暴走しようものなら、帝国民にも危害が及ぶのではないかと、そう皇族は危惧しているのだと。
「ペチカにこんなつらいこと、強いたくないよ。ペチカがずっとずっと頑張ってることは知っているから、少しでも楽にさせてあげたいのに。何もできなくてごめんね」
「いえ……私もそれを受け入れてしまっているので、同じですよ」
お兄様が謝る必要なんてない。
ただ、私が揺れる二人の人間の中で、どうすればいいか分からないだけだ。
頑張っているのか、ただ、ベテルとしての自分も、ペチカとしての自分も好きなだけで苦しいわけじゃない。けれど、今回のこの問題は、どちらかを捨てなければならない大問題である。バレれば、二度と殿下の信頼を得ることはできないだろう。ここまで積み上げてきたものを、手放すことになる。
「それで、婚約破棄するしかないの?」
「わかりません。それが、最善策だと思いました。ペチカである私から殿下を引きはがすこと、そうすれば、ベテルとしては殿下のそばにいられますし」
「それって、ペチカがゼインのことを好きっていうこと?」
「ど、どうしてそうなるんですか?」
毛布をガバッと落として、お兄様の方を見れば、お兄様はやっと笑っていた。馬鹿にするようなものではなく、本当に微笑むような、優しい笑みだった。
「どっちにしてもゼインのそばにいたいってことじゃない? ペチカを捨てて、ベテルとしてはゼインのそばにいると。でも、ベテルじゃなくてもいいわけじゃない? ゼインのそばにいられるなら」
「だ、ですから、何で私が殿下のことを好きだと。そうやって、暗示をかけて、賭けに勝とうとしてません?」
「ううん。違うよ。だって、俺にはそう見えるし、そう聞こえたから」
「意味わかりません……」
お兄様は時々変なことをいう。
私が殿下を好きなんて、そんなこと……
「ペチカ?」
「……でも、一目ぼれって言われました。可愛いって言われて、嬉しかったのは、事実です」
「え、ゼインそんなこと言ったの!?」
聞かせてよ、と身を乗り出してお兄様は目を輝かせた。言うんじゃなかったと思ったが、それはさすがに聞いてなかったらしく、興味津々としっぽを振る犬のように見つめてくる。その視線から逃れられなくて、私は一部始終をお兄様に話した。お兄様が知っている情報というのは、殿下に婚約破棄をしたいと言い続けた私を見限って、傷ついて殿下が皇宮に帰ってきたという話だけだった。
「へ~、ゼインがね。一目ぼれかあ。でも、ゼインが一目ぼれって、二度も一目ぼれするかな?」
「二度ってどういうことですか。ベテルと、ペチカにってことですか?」
「ううん、違うよ。ああ、でもこれは面白いから、そのうち、ね?」
「そういうところですよ、お兄様」
「でも、ペチカが可愛いか~可愛い、自慢の妹だもんね」
「なんか薄っぺらいです」
「いやいや、これでもかなり本気で言っているんだよ。俺の自慢の妹だって。可愛いよ、ペチカは。世界一」
と、お兄様はそういうと、私の手の甲にキスを落とす。
お兄様もお兄様でもてるのに、婚約者がいないのだから、殿下と似たような感じだろう。
「お兄様の、人たらし」
「ペチカも隅に置けないけどね。まあ、バレたらバレたときだよ」
「よくないです、それは」
「鈍感なゼインに感謝しないとね。あと、結構初心なところあるから、あまり刺激しちゃだめだよ?」
お兄様はそういって口元に手を当てて笑っていた。
確かに殿下は、慣れていない感じで、可愛いとは思ったが、刺激するなとはどういうことなのだろうか。
「ペチカは、ペチカだよ。俺からするとね……俺は、ベテルであるペチカもペチカだと思ってる。俺の弟はあの時死んだよ。だから、ペチカ……君だけはそうならないで。ペチカでいて」
「お兄様……」
ぎゅっと私を抱きしめたお兄様は、それ以上は何も言わなかった。
私は一人で二役を演じてはいるが、元はペチカなのだ。それを、自分でもわからなくなるくらいに境界をあいまいにして、本当にベテルという人間をこの世に誕生させてしまったような気もする。それはよくないし、お母様の思うつぼな気がしたのだ。ペチカがベテルになり変わるような、そんな恐怖に、私は少し眠れない夜を過ごす。
本当の私を見失ってしまったら、本当の私はどっちなのか。
分からないし、そんな曖昧な自分を見てほしくないから、殿下から離れようとしているのかもしれない。
近衛騎士団に入れたこと、それを誇りに思う反面で、抱いている劣等感と恐怖に、私は今も勝てる気がしなかった。表面だけ作り上げたベテル・アジェリット……そんなベテルが、弱い本当の私をあざ笑う気がするのだ。
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