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リフェアリー
128
相模湖の空き地に、ブルーシートは、なかった。
代わりに、小屋があった。丸太と、トタン屋根。峠の小屋と、同じ形。中に、机が一つと、椅子が三つ。壁に、板が、二枚。
『米一枚 芋二個一枚 薬一箱五枚』
『相模湖の掟 一、割符を割れ。二、三人で見よ。三、顔を覚えよ』
要は、板の前に、立った。
一年半前、ここで、要は、一本の枝を割った。老婆の孫の熱が下がったら、米三キロ。それだけの約束を、木で作った。
今、ここには、小屋があり、相場があり、掟が三条あった。
「誰が」つむぎが言った。
「わからない。でも、たぶん、飛脚の男だ。薪と靴の。丸が三十四の。相模湖を、通るたびに、何かを、置いていった」
小屋の奥から、老婆が、出てきた。
要は、顔を見た。一年半前の、米を売っていた老婆だった。孫の熱が、下がったか下がらなかったかの。
老婆も、要を見た。
「……木の人か」
「覚えてましたか」
「覚えとる。孫の熱は、下がった。三キロの約束が、残っとる」
老婆は、懐から、半分の木を出した。縦に割れた、枝の片方。一年半、持っていた。
要は、荷物から、自分の半分を出した。
二つを、合わせた。
割れ目が、ぴたりと、合った。木目が、二つとない形で、つながった。
「……合った」老婆は言った。
「合いました」
「三キロ、持っていけ」
「要りません。合ったことが、三キロの価値です」
老婆は、少し、笑った。それから、要の後ろの、つむぎと瑠衣を見た。
「東京へ行くのか」
「行きます」
「東京は、割れとる。御殿が三つに。だが、商店街は、回っとる。飛脚が、言っとった」
「商店街が」
「文房具屋の前で、三冊の帳面が、千行を超えたと。会長は、まだ、生きとる」
要は、息を吐いた。
*
八王子の関所は、まだ、あった。
料金所のゲート。鉄のバリケード。腕章の男たち。関守は、同じ男だった。農家の顔。日に焼けて、手が大きい。
関守は、要の顔を見た。それから、つむぎを見た。
「……顔の娘か」
「覚えてましたか」つむぎが言った。
「覚えとる。二十六人の顔を、全部、言った娘だ。女房が、あんたの話を、二年、してた」
関守は、ゲートの横の、小屋を指した。
「女房が、帳面をつけとる。三冊。あんたらが、教えていった。八王子を通った人間の、顔と、名前と、どこへ行ったか。二年分」
小屋の中に、三冊のノートが、積んであった。十冊以上。二年分。
「八王子を通る人間は、ここで顔を見せる。見せた顔は、帳面に残る。帳面に残った人間は、次に通るとき、速い。残ってない人間は、遅い。それだけだ。名前じゃない。顔だ」
要は、ノートを、一冊、開いた。関守の妻の字。顔の特徴。名前。日付。行き先。一行目は、二年前の、要と、つむぎと、瑠衣だった。
『東京、商店街の男。眉に傷。顔の娘。端末を抱えた少年。木曽へ』
要は、ノートを閉じた。
「……仕組みは、広がってた」要は、つむぎに言った。「僕が、知らない間に」
「要さんが、作ったんじゃない」つむぎは言った。「関守さんの奥さんが、作った。相模湖の小屋は、飛脚の人が。要さんは、木を割って、帳面を見せただけ」
「それで、十分だった」
「十分だった」
関守は、ゲートの鉄を、動かした。
「通れ。帰りも、通していい。顔は、もう、帳面にある」
*
東京は、静かだった。
高速道路を、徒歩で、下りた。二年前、要たちが、逆向きに歩いた道。ビルは、立っていた。信号は、変わっていなかった。電気が、止まっていた。電光掲示板は、黒かった。
株価は、もう、流れていなかった。
川沿いに、白い旗が、見えた。黒い丸。でも、旗は、三本あった。三つの倉庫に、一本ずつ。三つの旗の間には、誰も、歩いていなかった。
御殿は、三つに割れていた。三つの御殿の間の道を、誰も通らなかった。
商店街は、川沿いの反対側だった。
要は、歩いた。二年前、毎日、歩いた道。肉屋。八百屋。文房具屋。
文房具屋の前に、机が、出ていた。三冊のノート。三人の店主。会長は、七十を過ぎていた。二年で、小さくなっていた。でも、座っていた。
会長は、要を見た。
長い間、見ていた。
「……帳面が、たまってるわよ」
「すみません」
「千二百行。あんたがいない間に。全部、三冊に」
「見せてください」
会長は、ノートを、要に渡した。要は、開いた。最初の一行は、二年前だった。会長の字。米、五キロ。御殿で働いて、月末に米で払う男。
その下に、千二百行。
要は、机の前に、座った。二年前と、同じ椅子だった。
「一ノ瀬さんは」
「生きてる。二階に。足が、弱った。でも、印は、毎日、押してる」
「権田さんは」
「川沿いの倉庫。一番、東の。枕元に、人がいる。会いたがってる」
「鷺沼は」
会長は、要を見た。
「……その名前を、どこで」
「瑠衣が」
会長は、瑠衣を見た。それから、言った。
「権田さんの倉庫の、隣のビル。三階。電気が、そこだけ、ついてる。東京で、唯一、電気がついてる部屋だ」
要は、川沿いを見た。
三本の白い旗。その隣に、一つの窓。暗い東京の中で、一つだけ、灯っていた。
ゼロの向こうに、顔がある。その顔が、そこにいた。
コメント
1件
割符がぴったり合う場面、じんと来ました。「合ったことが三キロの価値」って言葉、要さんらしいなって。八王子の帳面が二年分も積まれてて、一行目が自分たちだったのも、ああいう積み重ねが世界を変えていくんだなと。最後の灯った窓、鷺沼さんにたどり着いたなって感慨深いです。静かなのに心揺さぶられる回でした。