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リフェアリー
128
階段は、二年前より、暗かった。
電気が、ない。商店街の発電機は、二年で、燃料を使い切っていた。要は、手探りで、二階に上がった。紙の匂いが、した。
ドアは、開いていた。
「……誰だ」
声は、二年前より、細かった。でも、目は、若かった。一ノ瀬は、机の向こうに、座っていた。白髪は、もっと白く、短く刈られていた。机の上に、硯と、筆と、朱肉。棚には、昭和、平成、令和。そして、新しい背表紙が、一列、増えていた。
『大剥離後』
「土師です」
一ノ瀬は、長い間、要を見ていた。
「……三冊の兄ちゃんか。足が、弱ってな。立てん。座ったまま、失礼する」
「はい」
「印は、持ってるか」
要は、懐から、印を出した。一ノ瀬がくれた、何も彫られていなかった印。要が自分で『土師』と彫った印。二年、使った。角が、少し、丸くなっていた。
一ノ瀬は、それを、受け取った。朱肉につけて、紙に押した。
「……下手な字だ」
「下手です」
「だが、二年分、使った印だ。角が丸い。真似できん。彫りたての印は、真似できる。使い込んだ印は、真似できん。わかるか」
「……わかります」
「よし」一ノ瀬は、印を返した。「話を聞こう。二年分」
*
要は、話した。
商店街の三冊。八王子の顔。相模湖の割符。甲府の評判台帳。諏訪の掟。塩尻の手形。木曽の村。三人立会い。偽造。侵入前提。証。値段。冬。貯め込む者。組合。貸す。つむぎの目。市。甲府からの手紙。飛脚。封蝋。諏訪の湖。為替。騙り。市の掟。瑠衣の端末。甲府陥落。水車。松明。権田。穴のリスト。封鎖。空の倉庫。盗まれた台帳とつむぎの記憶。ばあさまの川。権田が倒れたこと。殺さずに勝つ。御殿の中の市。酒。瑠衣が戻ったこと。権田の手紙。三つの封蝋。
二時間、かかった。
一ノ瀬は、一度も、口を挟まなかった。終わると、しばらく、黙っていた。
「……兄ちゃん」
「はい」
「お前は、二年で、江戸三百年分を、やったな」
要は、答えなかった。
「割符。手形。藩札。両替。為替。講。講というのは、組合のことだ。江戸の町人が、互いに金を出し合って、運の悪い者を助けた。お前の組合と、同じだ。飛脚。封蝋。掟。全部、江戸にあった。お前は、それを、二年で、作り直した」
「一ノ瀬さんが、教えてくれました」
「わしが教えたのは、割符と、公正証書と、封蝋だけだ。残りは、お前と、お前の周りの人間が、見つけた。わしが教えんでも、人間は、同じところに、たどり着く。三百年前も、今も。記録が信じられんとき、人は、木を割り、紙に三人で書き、蝋で封じる。それしか、ないからだ」
一ノ瀬は、棚の、新しい一列を指した。
「あれを、見ろ」
要は、一冊を抜いた。革ではなかった。大学ノートだった。表紙に、一ノ瀬の字で、『大剥離後、公正証書、第一冊』。
開いた。商店街の、ツケの約束。会長と、肉屋と、八百屋の署名。証人二人。一ノ瀬の印。割印。
「商店街の帳面が、千二百行になった。だが、帳面は、帳面だ。大きな約束は、帳面では足りん。だから、わしが、公正証書にした。二年で、八十四通。土地の貸し借り。店の譲り渡し。借金。遺言。全部、四人の目と、二通と、割印で」
「……東京で、公正証書が、生きてた」
「生きとる。電気がなくても、紙と墨と印は、生きとる。わしの足は、死んだが」
一ノ瀬は、少し、笑った。
*
要は、封蝋の法を、見せた。八行。
一ノ瀬は、読んだ。長く読んだ。
「……三つの蝋か」
「瑠衣が、考えました」
「あの端末の小僧か。よく考えた。江戸にも、あった。三判、というやつだ。三人の判がなければ、動かん。両替商が、大金を動かすとき、使った」
「やりますか」
「やる。わしの蝋は、三つ目だ。権田が一つ目。会長が二つ目。わしが三つ目。順番は、わしと、お前と、木曽の六人しか、知らん」
「権田さんは、倒れてます」
「知っとる。右手は、動く。印は、押せる。押せんなら、権田の枕元の男が、代わりに押す。それが、権田の最後の決断だと、お前は言った」
「言いました」
「なら、三つ目の蝋は、わしが、押す。足が動かんでも、手は動く」
一ノ瀬は、机の引き出しから、蝋のかたまりを出した。赤い。二年前、要が、見たもの。
「兄ちゃん。一つ、聞く」
「何ですか」
「お前は、東京を、七つ目の村にすると言った。三千人の御殿を。それは、いい。だが、東京は、三千人じゃない。三千人は、御殿の中だけだ。御殿の外に、何万人、何十万人、いる。商店街のような場所が、東京に、何百とある。それを、どうする」
要は、答えられなかった。
「お前の市は、四つの村で始まった。顔が見える範囲で。東京は、顔が見えん。何十万の顔は、誰にも覚えられん。顔の娘でも」
「……はい」
「それでも、東京で、市を作るのか」
要は、窓の外を見た。暗い東京。川沿いに、一つだけ、灯っている窓。
「作ります。でも、一つの市じゃない。何百もの、小さい市を。商店街の市。八王子の関所の市。相模湖の小屋の市。全部、顔が見える大きさで。それを、三つの封蝋で、つなぐ」
「何百もの市を、つなぐ」
「つなぎます。遅い。重い。狭い。でも、一つの大きい市より、壊れない。一つが壊れても、残りが残る」
一ノ瀬は、長い間、要を見ていた。
「……それは、国だな」
「国じゃないです」
「国だ。小さい市を、紙と蝋でつないだ、国だ。江戸がそうだった。三百の藩を、幕府が、紙でつないだ」
要は、何も言わなかった。
「まあ、いい。名前は、後で考えろ。まず、蝋だ」
一ノ瀬は、蝋を、火にかざした。溶け始めた。
コメント
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一ノ瀬さんの「使い込んだ印は真似できん」ってセリフ、ガチで刺さったわ。二年分の旅をたった二時間で語る要も、それを黙って受け止めて「江戸三百年分をやったな」って言う一ノ瀬も、熱すぎるだろ🔥 小さな市を封蝋でつなぐ構想、国って言われるのも納得のスケール。足は死んでも手は動くって姿勢、かっこよすぎるわ…!