[君の願いはなんだっけ?聞かせてごらんよ。]
かたかたと頭を異常に震わせ、私が近づいて来た。一歩、また一歩と距離は縮められる。
「私は…私が嫌い。」
白い歯の向こうには、呑みこまんとする黒い世界が私を試すように覗き込む。ぱくぱくと開かれる口の動きとはずれて言葉が聞こえる。
[皆嫌い。皆死んじゃえ。違う。悪いのは偏見にまみれた愚かな私だ。皆は何も悪くない。…だから、私が死ねばいいんだ。私が死ねば大嫌いな世界は平和に終わる。]
首に両腕がまわされ、抱きしめられる。”私に始めて触れた”。蛇に心を絞めあげられていく…。
[やんちゃしようぜ。私相手なんだから我慢しなくていい。これは二度とない展開だ。好き勝手しちゃおうぜ。]
「こんな自分は壊してしまって。」
利き手に伝わるのは冷たさ。
ナイフを掴んだ。
「楓果ちゃ……神代楓果!そのナイフから手を離して!だめだってっ!!あっ!!」
“あのナイフ”は早くに海に捨てておくんだった!後悔してももう遅い。慌ててナイフを取り戻そうと駆け寄るが、強く握りしめられた刃が上から振りかざされる。私は反射的に頭を守ろうと両腕を差しだしてしまう。
うっ
刃と狂気の衝撃で大袈裟に床に倒れ込む。一度倒れ込んだら最後、恐怖という感情のせいで立ち上がることは叶わなかった。
腕の脈打つ熱さに気づき、視線をやるとぱっくりと綺麗に口を開けた赤い肉が見えた。その瞬間、思い出したように痛みが腕を駆け巡る。
「うううううう…うっ!っ!うううううう…………ううう!!!」
この痛みに意識を集中させてはいけない。痛いと思ってはいけない。考えてはいけない。滝のように穴という穴から汗が吹き出す。歯は欠けるほどに食いしばり、身体を強く丸め込む。痛くない、痛くないと身体を激しく揺する。
しかし、刃は首を貫き、奥に入り込む異物の異常な感触と激しく怒り狂う痛覚……
私は”私”を刺すことに成功した。
血が激しく吹き出し、私は祝福された。
糸が切れたように倒れた”私”はにっこりと笑みを浮かべ床に突っ伏す。ぐっしょりと水を浴びたように汗で濡れた服は、部屋が汚れて汚いからとみるみる血を吸い上げていく。しかし、どこかチョコレート色のそれは固まるまで流れ続けた。
床は血と汗の水たまりは、気をつけないと滑って転んでしまいそうだ。
私は人を殺めたらしい
でもどうでもよかった
私は私になれた気がしたから
折角だから手についたのを舐めてみる。血はぬるりとしているのかと思っていたが、以外とさらさらしていて赤い水で濡れただけのようだった。”私”の血だから別に汚くないから危なくないし。
…鼻血の味だ。
こうゆうのってさオーガズムに達したキャラクターとかで味わう人とかいるけどさ、かっこつけて舐めるほどの、美味しさはないんだな。形だけか。だっせえな。
唾液と混じらせた血をぷっ…と吐き出す。
以外にも私の顔に表情はなかった。
やったやったって喜ぶのかなぁと思ってたんだけどな。
「…楓果ちゃんだけが悪いんじゃない…。周りが頼りない人ばかりだったからだよ。楓果ちゃん1人で抱えこんで楓果ちゃんの世界が救われる訳がない…。1人で世界を救える程に…人は強くない。」
…………この声は伊藤空?不安も悲しみも何もない温かい世界にしばらく居たが、その声で私は我に返り、すかさず確認する。どうして”死んだ私”から”君の声”が聞こえるの。目を大きく見開き驚きを隠せない。私は倒れた人形の顔を覗き込む。
すると”死んだはずの私”が腕に力を強く込め、ゆっくりと鉛を背負ったように上半身を起こし始めた。
「楓果ちゃん…ごめんね…ごめんなさい。」
髪が血と涙で張り付いた顔を見て私は驚愕した。どうして”伊藤空”がそこに居るんだよ!ど…どうして…どうして…。目の前の光景に現実味がない。これはきっと夢だ…夢をみているに違いない…。
「あー、もう私人で居られない。私もう少しこの世界に留まっていたかったなあ…。あー。もう、もう…。」
私は足の力が抜け、床にへたりと座り込む。
「楓果ちゃん…聞いて。私もうすぐで泡になっちゃうから…。…ねぇ、ファンタジーなお話は嫌いかな?」
伊藤空は後悔も、怒ることも、明日が来ることも諦めたかのような覇気のない表情に、今にも消えそうな柔らかい笑みを私に作り語りかけた。
コメント
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執筆お疲れ様です😄 ナイフで刺された時の感情の流れ込み方が、1回刺されたことあります?と疑うレベルにお上手で、流石だなと思いました…
全部読みました……素敵すぎてビックリです。 何でこんな上手すぎる表現が出来るんですか…… ありがとうございます〜!