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「くるみちゃんっ」
余りの愛しさに、くるみをギュッと抱きしめようとしたら、「お兄ちゃ〜ん、くるみちゃ〜ん、早よぉ来んちゃーい! みんな腹ペコよぉ〜?」と鏡花が廊下に顔を覗かせて。
実篤はビクッとして、くるみに伸ばそうとしていた手を万歳するみたいにシュパッと跳ね上げた。
「うっわっ。何なん、その手! 何かイヤラし〜!」
途端何とも心外な捨て台詞を残して、襖がピシャリと閉ざされて。
それを呆然と見つめる羽目になった実篤は、心の底から「くるみちゃんと二人きりが良かったぁー!」と思ったのだった。
***
「兄ちゃん、ホンマに覚えとらんのん?」
八雲にキョトンとされて、実篤は鍋料理に伸ばしかけていた箸を止めた。
「覚えちょるも何も……」
実篤は中学二生の頃から週に三回、高校受験対策で岩国駅近郊――クリノ不動産近く――の進学塾に通っていた。
実家はJR山陽本線の岩国駅から下り方面へ四駅ほど離れた由宇町で、学校はもちろんそっちの校区に通っていた栗野三兄弟妹なのだが。
両親が二人して麻里布町の不動産屋で働いていた絡みで、放課後は学童に預けられている小三の八雲と、小一の鏡花を中二の実篤が迎えに行って、三人で連れ立って電車で岩国駅まで出るのが日課になっていた。
八雲が言っている〝あんぱんのうまいパン屋〟と言うのは駅から『クリノ不動産』までの道すがらにあった『木の下の子リス』という、絵本のタイトルになりそうな小ぢんまりしたパン屋のことだ。
実際看板には子供がクレヨンで描いたような、胡桃を持ったリスの親子の下手可愛い絵が採用されていたのを、実篤も薄らと記憶している。
「リスの親子の看板が下手可愛な絵で印象的じゃったんは覚えちょる」
思わず頭に浮かんだままを口にしたら、すぐ横から「それ、うちが描いたん……」とくるみがポツンとつぶやいた。
そのしょぼんとした声音に、実篤は内心(ひーっ、失言じゃったぁ!)とオロオロしまくり。
「あっ、ほ、ほらっ、あれよっ! おっ、俺みたいなぼんやりした奴でもすんごい印象に残っちょるんじゃけぇ! それってとてもすごい事じゃと思わん?」
慌てて取り繕った実篤に、鏡花が冷たく「お兄ちゃんサイテー」と言い放って。
八雲も「うんうん」と頷く。
くるみのことが愛しくて堪らない実篤としては不本意も甚だしい由々しき事態だ。
「そっかそっか〜。あの絵描いたんはくるみちゃんじゃったんかぁ〜。あれ、いつも馬場のおばあちゃんが『可愛いかろ?』って自慢しよったよ」
なのに場の空気を読んでいるのかいないのか。
父・連史郎がのほほんとした声音で、割って入ってきて。
一様に皆の動きを止めてしまった。
どうやら「馬場」というのがくるみの祖母の苗字らしい。
(木下さんじゃないっちゅーことは、母方の祖母っちゅーことじゃろうか)
と思ったりした実篤だ。
「おじさま、うちのおばあちゃんのことご存知なんですか?」
「知っちょるも何も……よぉあんぱん買いに行きよったし。馬場のおばあちゃん、知恵袋が服着て歩きよぉーるよーな人じゃったけん、色々お知恵を拝借したりもしたよ?」
そこまで言って、ふと思い出したように
「ところでくるみちゃん。おじさまじゃなんて杓子定規な呼び方はくすぐったいけん、やめて? そぉじゃ! パパって呼んでくれたら滅茶苦茶嬉しいんじゃけど」
ウインクをして、ニコッと強面顔を緩める連史郎に、ホワァ〜ッとくるみの表情がはにかんだように綻んだ。
それを見て、実篤が慌ててくるみを自分の方へ引き寄せる。
「バカ親父! 調子に乗り過ぎじゃ!」
「え? パパがダメなん? あっ! ひょっとして援交っぽいけん? それじゃあ蓮くんとかなら如何わしゅうないけぇ良かろ?」
息子の注意喚起なんてどこ吹く風。
母親も八雲たちもこれに関しては止める気なんてないみたいにみんな知らん顔で黙々とご飯を食べているのも腹立たしいと思ってしまった実篤だ。
「どっちもダメに決まっちょろーが!」
実篤が吐き捨てるように言ったら、くるみが横で「お義父さまっ」とつぶやいて。
これには、ビールをひとくち口に含んだばかりだった八雲がむせて、鍋から白菜を拾い上げた所だった鏡花が菜箸を取り落とした。
そんな中、ただ一人母・鈴子だけは
「まぁ、素敵っ。じゃあ、私のことはお義母さまって呼んでね♥」
などと言って、何故か連史郎に便乗して。
ふたりして「娘が一人増えましたねー♥」と大喜びをする。
***
「じゃあまた遊びにおいでね」
食後、「まだいいじゃない」と言い募る鈴子をなだめて、明日はまだくるみちゃんも自分も仕事だからと早々に会合をお開きにした実篤だ。
「今度広島の家にも遊びに来なさいな」
名残惜しそうにくるみの方を見つめる連史郎に、実篤は「はいはい、機会があったらね」と答えて。
「馬鹿じゃのぉ、実篤。お前がくるみちゃんをうちまで連れて来んといけんのんじゃけ、機会はお前が作るんぞ?」
とクスクス笑われてしまう。
「馬鹿」
実篤は内心、(そいじゃあまるで、「くるみちゃんをお嫁さんにすることにしたけん!」と報告に行く感じになるではないかっ)と照れてしまった。
(いや、いずれそうなったら良いのぉ〜とは思いよぉーるけどっ)
さすがに付き合い始めてまだそんなに経っているわけじゃなし。
気が早すぎるじゃろと思ってみたり。
「今日は本当にご馳走様でした。凄く美味しいご飯じゃったけぇうち、つい食べ過ぎてしまいました」
いつの間にか、くるみが家族の前でも自分の前同様〝うち〟と自称するようになってしまったことがちょっぴり寂しかったりする実篤だ。
(くるみちゃぁ〜ん。余り親父に懐かんちょいて?)
などと父親限定で思ってしまったのは、くるみが時折連史郎を見つめてうっとりすることがあるからだ。
まさかあの強面顔相手にヤキモチを妬く日がくるだなんて、実篤は思いもよらなかったのだが。
「くるみちゃんはきっと私と男の人の趣味が似ちょるね」
母・鈴子がコロコロ笑うのを聞きながら、(何で母さんはヤキモキせんのんよ?)と思ったのは、ここだけの話。