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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
お義母さまが多恵子叔母さまの家から戻ったのは、夜の九時を過ぎてからだった。
勝手口で、私は膝をついて草履を受け取った。
「帯を、お解きいたしましょうか」
「いいわ」
お義母さまは、私の手を見なかった。
「帯は、自分で解くわ。……今日は、もう下がっていいのよ」
右の肩をかばいながら、お義母さまは渡り廊下を和館へ歩いていった。
藤色の帯揚げの左の脇に、片方の手を、ずっと添えたまま。
和館の廊下の、三枚目の板が鳴った。
七枚目も、鳴った。
あの人は、自分の家の鳴る板を、一度も跨いだことがない。跨ぐ必要がないからだ。この家で、あの人の足音を恐れる人はいても、あの人が恐れる足音はない。
*
ムギの散歩のあとで、離れの戸を叩いた。
灰色のマフラーは、きちんと四つに畳んで、紙袋に入れてきた。
畳むとき、指が勝手に角を斜めに折ろうとして、慌ててやめた。
「返しに、まいりました」
榊さんは、紙袋を受け取った。
中をのぞいて、少しだけ眉を下げた。
「……本当に、返しに来た」
「返しに来てくださいと、おっしゃいましたので」
「言った」
榊さんは、紙袋を卓袱台の脇に置いた。
それから、いつものように、ぬるい麦茶を出してくれた。
ムギが、私の膝に顎をのせて、目を閉じた。
*
帯揚げのことを、話した。
着付けのこと。左の脇の、硬い四角い物のこと。
手の甲を叩かれたこと。
それから、髪のことも。
話しているあいだ、榊さんは、手帳にペンを走らせていた。
髪を根元からつかまれて、耳の後ろを見られかけた、と言ったところで、ペンが止まった。
「……髪を、つかまれたのか」
「坊ちゃんが、入ってきてくださったので。見られては、いません」
榊さんは、何も言わなかった。
手帳の上のペンを、握ったままだった。
指の関節が、白くなっていた。
「痛むか」
「いいえ」
「本当に」
「……少しだけ。もう、平気です」
榊さんは、ペンを置いた。
長い息を、一つだけ吐いた。
「次に、同じことがあったら」
眼鏡の奥の目が、私を見た。
「俺を呼べ。弁護士として、じゃない」
それきり、榊さんは目をそらして、麦茶を飲んだ。
湯呑みを持つ手が、まだ少し、硬かった。
それから、榊さんは立ち上がって、押し入れから薄い毛布を一枚出した。
黙って、私の膝の上に、ムギごと掛けた。
「十月の夜の離れは、冷える。……あなたは、寒いと言わない人だから」
*
「帯揚げの中の物は」
しばらくして、榊さんが言った。
「あなたの録音機だと、思うんだな」
「大きさが、同じでした。厚みも」
「なら、それは今、あの家で一番安全な場所にある」
榊さんは、窓の外の、和館の暗い屋根を見た。
「そして、一番遠い場所だ。……あの人が自分で帯を解かない限り、誰の手も届かない」
私は、うなずいた。
お義母さまは、あの夜の蒼真の声を、ずっと胸に締めて暮らしてきた。
私の葬式の日も。私の四十九日の日も。
それを考えると、膝の上のムギの重さだけが、確かなものに思えた。
「もう一つ、お話ししたいことがあります」
麗奈のパンプスのことを、話した。
十月の初めに、一人でタクシーで出かけて、付け爪を折って帰ってきた日。踵にこびりついていた、赤い土。
「どこかで見た色だと思っていました。昨日、削られた墓誌の前で、思い出しました」
杉の根元の、赤い土。
先月、この縁側の沓脱ぎ石で、榊さんの革靴の縁に見たのと、同じ色。
榊さんは、手帳に一行、書き足した。
「覚えておく」
それから、ペンの尻で、手帳を軽く叩いた。
「今は、証拠にならない。土の色は、白樺台のどこにでもある。……寺には、防犯カメラもなかった」
「はい」
「だが、削った人間は、必ずもう一度、それを口にする。人に言わずにいられない種類のことだからだ」
*
「今日、叔父から電話があった」
榊さんは、卓袱台の上の書類を、一枚裏返した。
「日曜の会議に、出るそうだ。蒼真に頼まれたと。……それで、思い出したように言っていた。兄貴は、確かに遺言を書いたと言っていた、と」
「六月に、伺いました。お義父さまは、榊さんにも、叔父さまにも、そうおっしゃっていたと」
「もう一つ、あなたに話していないことがある」
榊さんの声が、少し低くなった。
「父が倒れた夜、俺は病院に呼ばれた。……父が俺を自分から呼んだのは、あれが最初で最後だった」
ムギが、耳を立てた。
「意識が戻ったのは、ほんの数分だった。父は、俺の手首をつかんで言った。家は、陽翔に残した。書いてある、と」
「……陽翔に」
「次の朝、父は死んだ。葬儀の翌日、顧問の倉橋先生が書斎の金庫を開けた。空だった」
榊さんは、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「遺言を隠した相続人は、相続人の資格を失う。法律に、そう書いてある。もし義母が隠しているなら、義母は、この家の半分を失う。……そして、家は、父が決めた通りになる」
あの図面に、陽翔の部屋はなかった。
お義父さまは、三年前に、もう陽翔の部屋を守っていた。
「だが、肝心の紙がない。三年、探した。この家に入れない俺には、探しようがなかった」
「もし、見つかったら」
「家庭裁判所に出す。検認という手続きだ。裁判所が、封を開けて、中を確かめる」
榊さんは、指で卓袱台を一度叩いた。
「ただし、誰が、どこから出したかで、紙の重さが変わる。……盗んで持ってきた紙は、まず、盗まれたことから争われる。本物かどうかより先に」
*
私は、七月の茶室のことを話した。
茶会の前の日の昼過ぎ。
お義母さまが、床の間の掛け軸を外し、壁の板を横へ滑らせたこと。
奥の、黒い鉄の小さな扉。
四度、かち、と鳴ったダイヤル。
中から取り出された、厚みのある、古い白い封筒。
お義母さまは、それを開けもせずに、縁を指でなぞって、また戻した。
「あのときは、瑞雲堂の書類だと思っていました。曙のことで、頭がいっぱいで」
榊さんが、ゆっくりと眼鏡をかけ直した。
「……書斎の金庫は、空だった」
「お義父さまが亡くなったあとで、お義母さまが、茶室へ移したのだと思います」
言ってから、気づいた。
お義母さま、と言っていた。
榊さんは、それを咎めなかった。
「ダイヤルは、四桁だと言ったな」
「はい」
「番号は」
私は、麦茶の湯呑みを置いた。
「大奥様は、大事なものの番号を、全部、坊ちゃんの誕生日にしています」
銀行のキャッシュカード。旅行鞄の鍵。和館の文箱の、小さな錠。
家計簿をつけていたころ、お義母さまは、私にカードを渡して、銀行へ行かせた。番号は、陽翔の誕生日よ、と。忘れたら承知しないわ、と。
お金の用事を、お義母さまは嫁にしか任せなかった。息子に通帳の中を見られるのを、何より嫌っていたからだ。
蒼真も、麗奈も、この番号を知らない。
「〇、二、一、四」
榊さんは、しばらく黙っていた。
「開けて、どうする」
「確かめるだけです。中にあるのが、本当にお義父さまの遺言なのかどうか」
私は、まっすぐに榊さんを見た。
「持ち出したりは、しません。私が手にした瞬間に、それは、家政婦が盗んだ紙になります」
「……あなたは、一人で命を賭けない。そう約束した」
「命は、賭けません。夜中の茶室に、行くだけです」
榊さんの顎に、力が入った。
六月の夜、この離れで交わした約束。
この人は、それを一度も忘れたことがない。
「十分ごとに、連絡を」
榊さんが、低く言った。
「それから、和館の廊下の、鳴る板は」
「三枚目と、七枚目です。目をつぶっていても、跨げます」
榊さんは、小さく息を吐いた。笑ったのか、ため息だったのか、わからなかった。
「一度でも途切れたら、俺は母屋の戸を壊す。今度は、数えない」
ムギが、私の膝から顔を上げた。
私は、その頭を、手袋の手で一度だけ撫でた。
「今夜、確かめます」
立ち上がって、頭を下げた。
「……開けるだけ。持ち出しはしません」
コメント
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うわああ第54話、重くてあったかくてやばかったです…!!😭💕 榊さんの「俺を呼べ。弁護士として、じゃない」のセリフ、その一言に全部詰まってる感じがして心臓ぎゅってなった…。 お義母さまが録音機を帯揚げに忍ばせてた描写がもうね、あの人の静かな強さと哀しさが滲んでて泣ける。 それにしても紅い土の伏線、まさか墓誌と麗奈に繋がるとは思わなかった…! 遺言の在り処も特定されたし、次どうなるの!?夜の茶室、一人で行くって決意した主人公、勇敢すぎる…榊さんが本気で心配してるのも伝わってきて胸熱です🔥 続きが待ちきれない…!!