テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
その夜、私は家じゅうの灯りが消える順番を、一つずつ数えた。
麗奈は、九時に和館の檜風呂に入り、十時には客間の灯りを消した。
お義母さまの寝間の障子が暗くなったのは、十一時。
蒼真は、日付が変わる前に書斎のソファで眠った。グラスを床に置いたまま。リフトの竪穴を伝って、いびきが厨房まで降りてきた。
もし誰かに見つかったら、何と言うか。
それも、決めてあった。
眠れませんので、明日の茶巾を、水屋で畳み直しておりました。
凛の声で、何度も口の中で言ってみた。
本当の私は、眠れないのではない。眠らずに、三年前のお義父さまの字を、確かめに行くのだ。
*
午前一時五十分。
半地下の部屋で、白い木綿の手袋を外した。
肌色の、医療用の薄い手袋だけを、両手にはめ直した。
指紋は、どこにも残さない。
エプロンのポケットに、スマホを入れた。
画面の明るさを一番下まで落とし、音も振動も切った。
離れに、一行だけ送った。
出ます。
返事は、すぐに来た。
起きている。
*
洋館の厨房から、勝手口の前を通り、渡り廊下へ出た。
板の冷たさが、足袋の底から上がってきた。
外の闇に、金木犀の匂いが沈んでいた。
和館の廊下に入る。
三枚目の板を、跨いだ。
七枚目も、跨いだ。
この家の者の歩き方だった。
洋館の十三段目は、毎日わざと踏んでいるのに。ここでは、体が勝手に覚えていた通りに動いた。
廊下の奥の客間で、麗奈が寝ている。
その手前の居間の、さらに奥が、お義母さまの寝間だ。
障子の向こうは、どれも暗かった。
茶道口の襖を、指一本ぶんずつ、開けた。
*
茶室の中は、墨を流したように暗かった。
スマホの明かりを、手のひらで半分覆った。
床の間に、細い光を当てる。
掛け軸は、十月の軸に替わっていた。
開門落葉多。門を開けば、落ち葉多し。
お義母さまの、名残の月の軸だった。
この人は毎年、十月も半ばを過ぎてから、これを掛ける。
軸の上の掛け釘から、矢筈で紐を外した。
音を立てないように、軸を巻き、畳の上に寝かせた。
むき出しになった、床の間の壁。
七月に、お義母さまの白い指が押した場所。
板の端を、手のひらで押した。
すっ、と板が横へ滑った。
黒い鉄の、小さな扉。
真ん中に、丸いダイヤル。
離れに、送った。
着きました。
起きている、と、また同じ返事が来た。
ダイヤルに、指をかけた。
〇。
かち。
二。
かち。
一。
かち。
四。
かち。
小さな取っ手を、手前に引いた。
重い扉が、音もなく開いた。
息を、吐いた。
吐いてはじめて、ずっと止めていたことに気づいた。
*
金庫の中には、三つの物が入っていた。
一番上に、厚みのある白い封筒。
その下に、茶色い紙の書類の束。
表紙に、瑞雲堂、という判が押してあった。
一番奥に、小さな印鑑の箱。
明かりを、封筒に寄せた。
表に、太い筆の字があった。
遺言書。
お義父さまの字だった。
私が嫁いだ日、お義父さまは、和館の座敷で祝いの包みを一つくださった。表に、同じ太い字で、澪さん、と。
封の閉じ目に、朱い印が押されていた。
封筒の端に、手袋の指先を一本だけ添えて、ほんの少し傾けた。
閉じ目の紙が、波打っていた。
一度湿って、乾いたあとのように。糊の跡が、縁から少しだけはみ出していた。
誰かが、一度、開けている。
そして、閉じ直している。
スマホを、構えた。
表を一枚。閉じ目を一枚。瑞雲堂の書類の表紙を一枚。印鑑の箱の蓋を一枚。
それ以上は、何にも触らなかった。
この封筒を胸に抱いて、離れへ走ることはできる。
今夜、全部を終わらせることも。
でも、私が持ち出したら、これは、ただの盗まれた紙になる。
家政婦が盗んだ紙。誰かが書き換えたかもしれない紙。
出すのは、隠した本人の手でなければ。
扉を閉めた。
ダイヤルを、元の〇へ回した。
薄い手袋の中で、指先が汗で湿っていた。
指紋は残らない。けれど、私がここにいたことは、この指が覚えている。
板を滑らせ、軸を掛け直した。
開門落葉多。
閉めました。何も持っていません。
そう送った、そのときだった。
廊下の板が、鳴った。
七枚目。
*
足袋の音が、近づいてくる。
跨がない足音。鳴る板を、平気で踏んでいく足音。
この家で、そんなふうに歩くのは、一人しかいない。
私は、茶道口から水屋へ滑りこんだ。
襖を閉める。最後の指一本ぶんだけ、閉めきれなかった。
水屋の闇の中で、背中を棚に押しつけた。
目の前の棚の奥に、白い茶碗が一つ、伏せてあった。
縁の欠けを、内側に向けて。
三年前の冬、お義母さまが私に投げた茶碗だった。
茶室の襖が開いた。
小さな明かりが、畳の上に落ちた。
寝間着に羽織をかけたお義母さまが、手に、懐中電灯と、何か平たい物を持って入ってきた。
床の間の前に、膝をついた。
明かりが、掛け軸を照らした。
お義母さまの手が、止まった。
開門落葉多。
軸の下の端が、ほんの少しだけ、右に傾いていた。
心臓の音が、耳の中で鳴った。
お義母さまは、しばらく、その傾きを見ていた。
「……隙間風かしら」
独り言だった。
懐中電灯の光が、ゆっくりと、茶室の中を一周した。躙り口。点前畳。風炉。そして、水屋の襖。
光が、襖の隙間の上を、すっと横切った。
私は、目を閉じた。
閉じた瞼の裏まで、明るくなった気がした。
光は、止まらなかった。
床の間へ、戻っていった。
お義母さまは、黙って、軸の端を指でまっすぐに直した。
それから、軸を外し、板を滑らせた。
かち、かち、かち、かち。
鉄の扉が開く音がした。
*
お義母さまは、白い封筒を取り出して、胸に抱いた。
それから、持ってきた平たい物を、畳の上に立てた。
仏壇の、お義父さまの小さな写真立てだった。
「眠れないのよ」
写真に、話しかけた。
「あなたが死んでから、ずっと。……眠れないのよ、宗一郎さん」
名前で、呼んだ。
三年間、私は一度も、この人がお義父さまに名前で呼びかけるのを聞いたことがなかった。
「四十年よ。この家の嫁をして、この家の女主人をして。あなたのお母様にいびられて、あなたの外の子の噂を、お茶の席で笑って聞き流して」
封筒を抱く腕に、力が入った。
「あなたは、最後まで、私に何も残さなかった」
声が、かすれていた。
「家を、陽翔に。……それは、いいのよ。あの子は、私の孫だもの。私が生きているあいだは、陽翔の家に、私がいればいいと思っていた」
写真立ての縁を、指でなぞった。
「蒼真は、あなたに似なかったわね。あなたが、一度もあの子を見てやらなかったから。……あの子はずっと、あなたに見てほしくて、背伸びばかりして」
封筒の角が、羽織の胸元に食いこんでいた。
「それなのに、あなたは、最後に書いた紙にまで。……あんなことまで書いて」
エプロンのポケットの中で、スマホの画面が光った。
離れからだった。
十分。返事を。
最後に送ってから、十分が過ぎていた。返事をしなければ、あの人は本当に母屋の戸を壊す。
私は、エプロンの布の上から画面を押さえ、光を覆った。
手探りで、一文字ずつ打った。
大奥様が、茶室に。水屋にいます。動けません。無事です。
送った。
光が、消えた。
襖の隙間の向こうで、お義母さまは、まだ写真を見ていた。
背中が、小さかった。
扇子で私の手の甲を打った人の背中とは、思えないほど。
憎んでいいはずの人だった。
私の葬式を急ぎ、私の死を、三年分のいびりの最後に置いた人。
それなのに、目の前の欠けた茶碗から、目を離せなかった。
この人は、これを捨てなかった。
お義母さまが、封筒を、いっそう強く胸に押しつけた。
「これが出たら、あの子は終わる」
あの子。
あの子とは、蒼真のことだろうか。
コメント
1件
お疲れさまです…第55話、めちゃくちゃ緊張しながら読みました。 夜中の茶室、光の加減、一音一音の足音、全部が怖いくらいリアルで…。特に水屋に隠れてる場面、息するの忘れそうになりました。 お義母さまが写真に向かって「眠れないのよ」って名前で呼びかけたところ、胸に刺さりました。憎んでいいはずなのに、捨てられなかった欠けた茶碗にも泣きそう…。 伏線がじわじわ回収されてく感じ、本当に好きです。続き、ちゃんと受け取らせてください🌙