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気づけば、空はすっかり色を変えていた。賑やかな通りを抜け、人気の少ない道へ。 そして――見慣れたアジトの扉の前。
「……」
足を止める。
「では、今日はこれで」
いつも通りの声音。
けれど、ほんのわずかに間があった。
「うん」
ゴーゴリも、珍しくあっさりと頷く。
「楽しかったよ、デェト」
「逢引ではありません」
「はいはい」
軽く笑う。
だが、その笑みもどこか控えめだった。
扉に手をかける。
その瞬間――
「ねぇ、ドス君」
呼び止められる。
「……なんですか」
振り返る。
そこにいた彼は。
今までのどの表情とも違っていた。
笑っていない。
ふざけてもいない。
ただ、真っ直ぐにこちらを見ている。
「本気で」
一歩、近づく。
「僕の奥さんになる気はない?」
「……」
空気が、静かに張り詰める。
冗談ではない。
軽口でもない。
それは――はっきりとした“意思”だった。
(……ああ)
フェオドラは、ほんの一瞬だけ目を細める。
(この人、本気で言っているのですね)
困った人だ、と。
心のどこかで思いながら。
ほんのわずかに――
微笑んだ。
「……」
そして。
「寝言は」
一拍。
「寝てから言いましょうね」
柔らかく、けれどきっぱりと。
「……はは」
一瞬の沈黙の後。
ゴーゴリは、小さく笑った。
「そっかぁ」
「ええ」
「じゃあ今度、寝てる時に言うね」
「やめてください」
即答だった。
くすり、と彼は笑う。
その顔は、少しだけ救われたようでもあり、 それでもまだ迷いを抱えたままでもあった。
「……じゃあね、ドス君」
「ごきげんよう」
軽く手を振る彼に背を向け、
フェオドラは扉を開ける。
中へ入る直前。
ほんの一瞬だけ、立ち止まる。
(……本当に困った人)
そう思いながら。
扉を閉めた。
外には、まだ彼が立っている気配が――しばらくの間、消えなかった。
ーーーーー
その日の無意識領域にて…
静かな庭園。 風はなく、花弁一枚すら揺れない。
東屋の中、白い湯気を立てる紅茶。
その完璧な静寂の中で――
「……」
フェージャは、にこやかに座っていた。
にこやかに。 ただし。
目だけが笑っていない。
「……随分と楽しそうでしたね」
声は柔らかい。 だが、温度がない。
「……聞いていたのですか」
向かいに座るフェーニャは、わずかにため息をつく。
「“聞いていた”などと、まるで盗み聞きのような言い方はやめてください。私はお前の兄ですよ?」
「言い方の問題ではない気がするのですが」
即答だった。
フェージャはカップを持ち上げ、一口。
「しかし」
ことり、と音を立てて戻す。
「……あの道化師、随分と距離が近い」
「ゴーゴリさんのことですか」
「他に誰がいます?」
にこり。
だがやはり目が笑っていない。
「人の妹に“奥さん”などと……」
「言っていましたね」
「腰に手を回し、引き寄せ、耳元で囁き……」
「細かく見ていますね」
「当然」
即答。
「不快です」
「そこまで言います?」
「言います」
真顔だった。
(ああ、これはダメな時の兄さんですね……)
フェーニャは悟る。
「そもそも」
フェージャは続ける。
「自由だの証明だのと、もっともらしいことを言いながら」
「……」
「やっていることは“人の妹にちょっかいをかける下衆”ではないですか」
「言い方がひどいですね」
「事実です」
即答。
一切の迷いがない。
「……ですが」
フェーニャはカップに手を伸ばす。
「彼なりに苦しんでいるのは確かですよ」
「知っています」
「ならば」
「それとこれとは話が別です」
ぴしゃり。
「思想は否定しません。能力も有用です。作戦上必要な駒であることも理解しています」
一息。
「ですが」
ほんのわずかに、声が低くなる。
「フェーニャに近づきすぎです」
「……」
「そこは、譲れない」
静かな宣言だった。
フェーニャは、ふっと小さく笑う。
「……本当に、変わりませんね」
「何がです?」
「兄さんは」
少しだけ、言葉を選ぶようにして。
「昔から、そういうところがありますから」
「当然」
少しだけ、柔らかくなる声音。
「お前は、僕の大切な妹なのですから」
「……」
その言葉に、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
そして。
「……でも」
ぽつりと。
「今日は、楽しかったですよ」
「……」
フェージャの手が、わずかに止まる。
「甘いものも、美味しかったですし」
「……ええ」
「街も、賑やかで」
「……ええ」
「……ああいうふうに、何も考えずに歩くのも」
少しだけ、遠くを見るような目。
「悪くないものですね」
「……」
フェージャは、何も言わない。
ただ静かに、その言葉を受け取る。だがその目はひどく優しい物で、魔人と言われているのが嘘のようだった。
「……兄さんとも」
ふいに、言葉が続く。
「出掛けられたら良いのですが」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなる。
「……叶わぬ夢ですね」
しょぼん、と。
ほんのわずかに肩を落とす。
「……」
その瞬間。
フェージャの思考が、止まった。
(……)
(……今のは、反則では?)
「……兄さん?」
返事がないことに気づき、顔を上げる。
そこには――
「……いえ」
いつも通りの、にこやかな顔。
だが。
ほんのわずかに、目元が緩んでいる。
「少し、想像してしまいましてね」
「想像?」
「ええ」
穏やかに微笑む。
「お前と並んで街を歩く光景を」
「……」
「甘いものを選び、くだらない会話をして」
「くだらないって言わないでください」
「おや失礼」
くすり、と笑う。
「……ですが」
ほんの少しだけ、目を細める。
「それは確かに――叶わぬ夢ですね」
静かに。
だがその声には、わずかな寂しさが混じっていた。
「……」
フェーニャは何も言わない。
ただ、カップを両手で包む。
温もりを確かめるように。
「……でもね」
フェージャが続ける。
「フェーニャ、僕は…」
視線を向ける。
優しく、柔らかく。
「お前が楽しめたのであれば、それで良いのだから」
「……兄さん」
「ええ」
「……ありがとうございます」
ふにゃりと、幼少期と変わらぬ顔で笑う。
その笑顔を見て、
フェージャは一瞬、言葉を失った。
(……ああ)
思う。
(この笑顔を守るためならば)
どれだけのものを壊しても構わない、と。
「……フェーニャ」
「なんです?」
「また行くといい」
「……え?」
少し驚いたように目を瞬かせる。
「外へ」
穏やかに言う。
「お前が“お前として”過ごせる時間は、貴重ですから」
そういうと愛する妹に向かって微笑んだ。そんな兄を見て、フェーニャは眉を下げる。
「兄さん、でもね?兄さんと出掛けたいというのも、ちゃんとした本心なんです。」
持っていたカップをそっと置く。
「私の気持ちを優先してくれる兄さんと同じで、私も兄さんが兄さんらしく過ごせることを願ってますから。」
それを聞いたフェージャは静かに目を伏せた。そして、
「……困りましたね」
「?」
「それを言われると」
顔を上げる。
その笑みは、いつもの“魔人”のものではなかった。
「全てを捨ててでも叶えたくなる」
「やめてください」
即答だった。
「世界が終わります」
「冗談ですよ」
「目が冗談ではありませんでした」
「気のせいです」
「違います」
くすり、と。
ほんの少しだけ、二人の間に笑みがこぼれた。
「…」
フェーニャは小さく息を吐き、
「……ありがとうございます」
ぽつりと、そう言った。
「今日のこと、否定されるかと思っていましたから」
「まさか」
フェージャは首を振る。
「お前の幸せを否定する理由など、私にはありません」
一拍。
「……それを奪う存在は、別ですが」
「兄さん」
「はい」
「顔が怖いです」
「失礼しました」
すぐに戻る。
だが。
「……」
その瞳の奥だけは、変わらなかった。
静かで、冷たい決意。
そして同時に――
妹を想う、どうしようもないほどの愛情。
「……フェーニャ」
「はい」
「次にあの男と出かける際は」
「まだ行く前提なのですね」
「あの男以外でお前が自分自身として出かけることのできる相手がいなかったもので、不本意ですが。…不本意ですが。」
きっぱり。
「……距離を詰めすぎないように」
「努力はします」
「努力ではなく“徹底”してほしい」
「難しいですね」
ほんの少し、笑う。
「……でも」
そのまま、柔らかく。
「気をつけます」
「ええ」
フェージャは満足そうに頷いた。
そして。
そっと、紅茶を口にする。
静かな庭園。
変わらぬ世界。
その中でただ一つ――
確かに変わっていくものがあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〈番外編 ifストーリー〉 異能のない世界にて――聖北天学院の日常
春。
桜がゆるやかに風に揺れる、穏やかな朝。
その校門の前に、一台の黒塗りの高級車が静かに停まった。
「お嬢様、到着いたしました」
ドアを開けるのは、完璧な所作の青年――イワン。
「ありがとうございます、イワン」
車から降りたのは、長い黒髪を揺らす少女。
整った顔立ちに、どこか冷静な瞳。
だがその奥には、年相応の柔らかさも確かにある。
フェオドラ・ドストエフスキー。 ――通称、フェーニャ。
聖北天学院高校、一年二組。
「本日も、何かございましたらすぐにご連絡を」
「ええ、大丈夫です。高校くらい、普通に通えますから」
「“普通”の基準が一般とは異なりますのでご注意ください」
「失礼ですね」
小さくため息をつきながらも、どこか慣れたやり取り。
そのまま校門へと足を向ける。
(……日本の学校生活)
ほんの少しだけ、視線を上げる。
(悪くは、なさそうですね)
ーーーーー
一方、その頃。
「ドスくーーーん!!!」
校舎の廊下に響く大声。
「……朝から元気ですね、ゴーゴリさん」
ため息混じりに振り返るのは、白い肌に整った顔立ちの少年。
フョードル・ドストエフスキー――通称、フェージャ。
聖北天学院高校、二年一組。
「元気だよ〜!だって今日もドス君がいるからね!」
「やめてくださいその呼び方」
「え〜?親友じゃん?」
「違います」
即答。
しかし。
「でも一緒に登校してるよ?」
「貴方が勝手についてきているだけです」
「それを世間では“仲良し”って言うんだよ?」
「言いません」
ぴしゃり。
だがゴーゴリはまるで気にした様子もなく、にこにこと笑っている。
「ねぇねぇドス君、今日さ――」
と、その時。
階段の下から、小さなざわめき。
「……?」
視線を向ける。
そこにいたのは――
「……あ」
フェーニャだった。
「兄さん」
「フェーニャ」
ほんの少しだけ、表情が緩む。
それは他の誰にも見せない、柔らかなもの。
「無事に登校できたようで何よりです」
「それくらいできます」
「そうですね」
くすり、と笑う。
「……」
そのやり取りを、横で見ていたゴーゴリが――
「え、なにその顔」
「何ですか」
「今のドス君、めちゃくちゃ優しかったんだけど」
「気のせいです」
「いや絶対違うでしょ!」
ぐいっとフェーニャの方を見る。
「ねぇ君!ドス君の何なの?」
「妹ですが」
即答。
「……え?」
ゴーゴリ、固まる。
「妹、です」
もう一度。
「え、え、え、え?」
明らかに処理が追いついていない。
「ドス君に妹いたの⁈」
「いますが」
「聞いてない!!」
「聞かれていませんから」
正論。
「えぇ〜〜……」
そして、じっとフェーニャを見る。
「……」
「……何ですか」
「いや」
にこり、と笑う。
「可愛いね!」
「……どうも」
さらりと受け流す。
だが。
「……」
フェージャの視線が、ほんのわずかに鋭くなった。
「ゴーゴリさん」
「ん?」
「距離が近いです」
「え?」
気づけば、ゴーゴリは無意識に一歩踏み込んでいた。
「妹ですので」
にこやかに言う。 だが、その笑顔の奥は冷たい。
「適切な距離を保ってください」
「え、なにそれ怖い」
「普通です」
「いや普通じゃないよね?」
「普通です」
言い切る。
「……」
フェーニャはそのやり取りを見て、
(……兄さん、過保護ですね)
と、内心で思いながらも。
ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……兄さん」
「はい」
「大丈夫です」
「何がでしょう」
「このくらいなら」
「……」
一瞬、間。
そして。
「……そうですか」
ほんの少しだけ、納得しきれない顔。
「でも」
小さく付け足す。
「何かあればすぐに言いなさい」
「はいはい」
「はいは一回です」
「はい」
そのやり取りに。
ゴーゴリは、にやりと笑った。
「いいねぇ」
「何がですか」
「面白い」
「帰ってください」
「まだ朝だよ?」
笑いながら、二人の間に割って入る。
「ねぇフェーニャちゃん!」
「……呼び方に問題があります」
「じゃあフェオドラ?」
「それで結構です」
「じゃあフェオドラ!」
ぐっと顔を寄せる。
「今日、放課後空いてる?」
「?」
フェージャの空気が、一瞬で冷えた。
「ゴーゴリさん」
「なに?」
「何を企んでいるのですか」
「え〜?ただの親睦だよ?」
「必要ありません」
「あるよ!」
即答。
「だってさ」
にこり。
「ドス君の大事な妹でしょ?」
「……」
「仲良くしたいじゃん?」
「必要ありません」
二回目。
しかし。
「……」
フェーニャは少しだけ考えた後。
「……少しなら」
「フェーニャ」
即座に兄の声。
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「大丈夫です」
静かな応酬。
そして。
「……兄さんも来ますか?」
「行きます」
即答だった。
「えぇ⁈」
ゴーゴリが声を上げる。
「それズルくない⁈」
「何がでしょう」
「二対一じゃん!」
「問題ありません」
「あるよ!」
騒がしい。
でも。
その空間は、どこか温かかった。
(……こういうのも)
フェーニャは、ほんの少しだけ空を見上げる。
(悪くないですね)
春の風が、三人の間をすり抜けていった。
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あとがき失礼します。作者の猫の小判です。今回は、前回の続き+おまけのifストーリーを書かせていただきました。
おまけのストーリーの追加情報なのですが、公式の聖北天学院が男子校なのに対し、フェーニャを入れたい一心で共学の設定を入れさせていただきました。あと、軽く考えただけなのですが、二人の両親がロシアで大きな会社を持っていて、事故で二人が亡くなり、現在はフェージャが社長をしていて、日本に来たのは普通(?)の学生を体験してみたかったから…という理由です。
わたくしごとなのですが、長期休みが明け、投稿頻度が減ってしまうと思われます。先に謝っておきます。
できる限り投稿してまいりますので、どうぞ続きもお楽しみに♪
#フョードル・ドストエフスキー(文豪ストレイドッグス)
猫の小判
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コメント
3件
第9話読み終えたよ!ゴーゴリからの「奥さんになる気はない?」は本当にドキッとしたし、冗談じゃないって伝わる真剣さがすごく良かった。それに対するフェオドラの流し方も絶妙で、2人の距離感が絶妙すぎる。そしてフェージャの妹への過保護っぷり、最高すぎるでしょ(笑)番外編のifストーリーもまた違った魅力があって、ほっこりした。シリアスと日常のバランスがうますぎる!続きすごく楽しみにしてるから、投稿ペースは無理しないでね🔥