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断崖絶壁の先から見る月は、巨大で美しかった。
生命のはじまりから現在までをずっと見続けてきたような、圧倒的な迫力だった。
流れ星がひとつ、海に向かって落ちた。
3人の勇太が同時にそれを見ていた。
「願い事をしよう。それぞれが今感じている通りに、声にしてみてくれ」
母体がそう話すと、まず勇太(属性:忠誠心)が言った。
「我が吾妻グループの輝かしい明日が未来永劫、続かんことを……」
続いて勇太(属性:リスクコントロール)が言った。
「吾妻勇太が健康で健全な人生を送らんことを……」
母体である勇太は、流れ星の消えた夜空をじっと眺めていた。
「おまえも言ってみろ」
「おまえも言ってみろ」
ふたつの声が重なると母体は月を見上げた。
「俺のせいで消えた勇太たちの命が、無駄になりませんように……」
3人はそのまま月と風と星の中に、その身をゆだねた。
どれだけの時間が経ったろうか。
ここでは時間など無意味だった。
勇太というひとつの生命の根幹を今夜失うのだ。
誰ひとりとして、心を平静に保てる者はいなかった。
幼い頃に見た、あの美しい月とはやはり違っていた。
大きくなるにつれ、あの夜に見た月と東京の月が同じ物体であると知り、月ではない美しいものもたくさん見てきた。
それでも、ここの月は言葉では言い表せないほど美しかった。
みんなわかっていた。
美しさは、月がもたらすものではないことを。
吾妻勇太という人間の最後という重みが、月を儚くも美しく光らせているのだ。
無意味であった時間が、ようやくその意味を取り戻す。
覚悟を決める時だった。
本来の勇太ではないまた別の勇太が、命の軸を引き継ぐ時間だった。
今までの勇太は今日で終わる。
その圧力と負荷を、3人は言葉ではない感覚で共有していた。
「最後にひとつ、頼みがある。俺はおまえたちの手ではなく、自分の力でこの命の綱を断ち切りたい」
他の勇信たちは、もちろんその意味を理解している。
ここは断崖絶壁であり、下には暗黒色の海が広がっている。
地元住民だけが知る、別名「神の壁」。
ここから落ちた命は、また別の命へと生まれ変わる。そんな伝説をもつ場所だった。
「すまないが、それはできない。俺は俺の本質にのっとって、完璧なリスクコントロールを遂行しなければならない。もちろんおまえが何を言いたいのかはわかっている。しかし万が一にでも勇太の死体が世に露呈するなどあってはならない」
勇太(属性:リスクコントロール)が慎重に、しかし断固とした口調で言った。
続いて別の勇太(属性:忠誠心)が、死体という証拠を隠すために行ってきた火葬方法を細かく伝えた。
「移動火葬車か……奇抜なアイデアだ。本気で俺たちを殺そうと思ったからこそ、そうした方法まで思いついたんだな」
「致死薬も持ってきたから、心配はいらない。薬が体に入れば、20秒も経たないうちに楽になれる」
「なかなかの気遣いだ。だがそれはできない。最後の夢のために」
「夢……。もっと近くに……あの月に触れるほど近くに、か」
「そうだ」
母体はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。それから目を閉じ夜空を崇めるように両手を広げた。
「すまない……理解してほしい」
勇太(属性:忠誠心)も立ち上がり、母体の背後へと回った。
勇太(属性:リスクコントロール)がかばんに入れてある致死薬を取り出した。
「もっと近くに……あの月に触れるほど近くに」
母体である勇太がいきなり走り出した。そして断崖絶壁の先で強く大地を蹴り、そのまま空に向かって走った。
勇太は高く手を伸ばし、夢であった月をその右手でつかんだ。
そしてそのまま絶壁の下へと消えてしまった。
残されたふたりは、目の前で起こったことがすぐには理解できず、あ然としたまま母体のいなくなった絶壁を見つめた。
「あいつ……最後に我を通しやがって」
「落ち着け。ここはビルの屋上じゃない。絶対に大丈夫だ。もし万が一死体が発見されたとしても、俺たちのどちらかが副会長の座にいれば、警察の過失になるはずだ」
「そうだな。すでに起こったことを後悔するより、今後起こるかもしれないリスクをしっかりと考えるべきだろう」
「……」
勇太の核心であった母体は、その短い人生を終えた。
残されたふたりは全身に広がる悲しみと、未来を憂慮する複雑な心境に立たされた。
ふたりはしばらく絶壁から離れられず、ずっと巨大な月を眺めていた。
*
翌日。
グループ本社で副会長職を務めていた吾妻勇太(属性:寛大)が死亡した。
山奥の別荘に到着し、車から降りた瞬間だった。
うしろに隠れていた勇太が首を固めて失神させ、そのまま致死薬を注入した。
バスルームに運ばれた死体は、およそ一時間で肉塊に変わった。
前庭では移動式火葬車が、副会長と呼ばれていた吾妻勇太を燃やしている。
残るふたりの勇太はリビングルームにいた。
テーブルを挟んで互いに向かい合ったまま、静かに酒を飲んだ。
ふたりの間に置いてあるのは、ウィスキーとオリーブの缶詰。
そして一発の弾丸が入ったリボルバー型拳銃。
リビングルームは静寂が流れていた。
多くの勇太を殺さなければならなかった苦難の時間を、ウィスキーで少しでも癒やそうと思ったからだ。
90分が過ぎ、副会長であった勇太の半分が灰になった。
死体処理を専門とする勇太が再び外に出て、残る半分の肉塊を焼却炉に投入した。
あと90分後には、勇太はたったふたりになる。
そしてどちらかが死ぬ。
自分が死ぬかもしれないという恐怖。
ようやく平和が訪れるという安堵。
そのふたつが、ふたりの心の中に渦巻いていた。