コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
警察車両が見えなくなるまで、四島忠信は土埃の舞い上がる道路に膝をついて項垂れていた。その背中は、まるで一瞬にして何十年もの重荷を背負ったかのように見窄らしく小さかった。かつては威厳に満ちていた四島工業の社長の姿は、そこにはなく、ただ息子の過ちに打ちひしがれた一人の父親が残されていた。
郷士が震える背中にそっと声をかけると、忠信は目を赤く滲ませ、ゆっくりと立ち上がった。深々と頭を下げ、声を詰まらせながら謝罪の言葉を絞り出した。
「この度はご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございませんでした」
その言葉に、港が冷ややかに切り返した。「謝罪する相手を間違えていない?」 その声は鋭く、まるで忠信の心に突き刺さるようだった。忠信は慌てて玄関の土間に膝をつき、土下座の姿勢で綾野家の面々に向き直った。菜月をはじめ、郷士、ゆき、湊の視線が彼に注がれる中、忠信はコメツキバッタのように頭を下げ続け、謝罪の言葉を繰り返した。
「本当に申し訳ありませんでした…どうか、どうかお許しください」
「もう、大丈夫ですから」
菜月の静かな声が、土下座を続ける忠信を止めた。
「菜月!」
港が驚いたように声を上げたが、菜月は穏やかに微笑んだ。
「良いの、もう終わったことだから」
忠信は菜月の言葉に、まるで救われたかのように安堵の息をつき、顔を上げた。額には土埃がこびりつき、スーツも泥に汚れ、天下の四島工業の社長とは思えぬ姿だった。運転手が迎えの車で駆けつけ、泥まみれの忠信を見て目を白黒させたが、忠信はただ黙って誓約書の封筒を握りしめ、車に乗り込んだ。車のエンジン音が遠ざかり、静寂が再び庭を包んだ。
カコーン。
庭の鹿威しが澄んだ音を響かせ、緊迫していた空間に平穏が戻った。重苦しい空気から解放された綾野家の面々は、畳の上に足を崩し、大きな溜め息をついた。多摩さんが静かに立ち上がり、ほうじ茶を淹れ始めた。湯気とともに立ち上る茶の香りが、部屋に穏やかな安堵感をもたらした。一人ひとりの前に置かれた湯呑み茶碗から漂う温かさが、緊張で冷え切った心をそっと解きほぐした。菜月は湯呑みを両手で包み込み、その温もりに過去の痛みを溶かすような安らぎを感じた。
「これで全て終了ですね」
佐々木が書類を丁寧にまとめ、アタッシュケースに収めた。そして、茶封筒に入った菜月と賢治の離婚届を取り出し、静かに菜月に手渡した。「どうぞ」とだけ告げ、その視線には労りの色が浮かんでいた。菜月は封筒を受け取り、じっと見つめた。その中には、辛く苦しい過去が詰まっていると同時に、新たな未来への一歩が秘められているようだった。隣で微笑む湊の顔に、菜月は希望の光を見出した。湊の笑顔は、まるでこれから始まる新しい日々を約束するようだった。
「これで一件落着だね」
湊が軽やかに言うと、菜月は小さく頷き、そっと湊の指先を握った。「ありがとう」と囁く声には、感謝と解放感が込められていた。
「お父さん、お母さん」
菜月は両親に向き直り、姿勢を正した。畳に指をつき、深々と頭を下げた。目頭が熱くなり、涙が頬を伝った。
「ご心配おかけしました、ありがとうございました」
その言葉には、これまでの苦しみと、家族の支えへの深い感謝が込められていた。郷士は腕を組み、満足げに頷いた。「無事解決してなによりだ」 ゆきは柔らかく微笑み、「本当に良かったわ」と優しく答えた。その光景を、多摩さんは静かに見つめていた。目尻に浮かんだ涙を、かすりの着物の袖でそっと拭う。彼女の頷きには、家族が再び一つになった安堵と、菜月の新たな門出を祝福する思いが込められていた。
部屋には、ほうじ茶の香りとともに、穏やかな時間が流れていた。窓の外では、庭の木々がそよ風に揺れ、鹿威しの音が時折響く。菜月は封筒を胸に抱き、湊の手を握り直した。この瞬間、彼女は過去の傷を癒し、未来への一歩を踏み出す力を感じていた。綾野家の面々は、互いの存在に支えられながら、静かに新たな日々を迎える準備をしていた。
カコーン。
鹿威しの音が、再び庭に響いた。それは、まるで過去を清算し、新たな始まりを告げる音のように、家族の心に穏やかに響いた。
郷士は襟足を掻きながら、困り顔で天井を見上げた。まるでそこに答えが隠れているかのように、じっと視線を彷徨わせた。菜月たちはその視線を追い、何か特別なものがあるのかと天井を見上げたが、そこにはただ古びたシーリングライトがぶら下がっているだけだった。埃が薄く積もったその光は、部屋に柔らかな陰影を落としていた。
ゆきが、郷士の袂を軽く引っ張り、「どうなさったんですか?」と尋ねると、彼は目を瞑り、眉間に深くシワを寄せて低く唸った。
「それにしても、俺には人を見る目がなかったんだな」
その言葉に、湊が座敷テーブルに身を乗り出した。「どういうこと?」 彼の声には、好奇心とわずかな苛立ちが混じっていた。菜月は頬を膨らませ、黙って郷士を睨んだ。ゆきは呆れたように溜め息をつき、目を細めて夫を見つめた。
「そうですよ!郷士さんが菜月さんに結婚を急がせたからですよ!」
ゆきの声には、普段の温厚さとは裏腹な鋭さが宿っていた。
「う、うむ。そうとも言う」
「そうとも言うじゃありません!私があんなに反対したのに!」
ゆきは目尻を吊り上げ、郷士の肩を軽く叩いた。その仕草は、怒りというより長年の連れ添った夫への愛情深い苛立ちのようだった。菜月と賢治の縁談を進めたのは郷士だった。四島工業株式会社に、菜月に見合う年頃の次男がいると聞きつけたのだ。一級建築士の資格を持ち、企業間の繋がりを強固にする好機と考えた郷士は、ほとんど勢いで話を進めた。だが、その決断がこんな結末を招くとは、誰が想像しただろう。
「まさか、賢治くんがあんな男だとは…」
郷士の声は、悔恨と自嘲に満ちていた。
「四島さんのお家柄を念入りに調べてからでも良かったのに!」
ゆきの愚痴は止まらず、興奮した様子で郷士の耳に痛い部分を次々と突いてきた。彼女の声は、まるで溜め込んでいた不満が一気に溢れ出したかのようだった。郷士は目を瞑り、嵐が過ぎ去るのを待つように肩をすくめた。座敷には、彼女の声と、時折響く鹿威しのカコーンという音だけが響いた。
「お金に目が眩んで、郷士さんは馬鹿です!」
「そうだな、馬鹿だな」
郷士は苦笑しながら呟き、ゆきの勢いに圧倒されつつも、どこかで彼女の正直さに救われているように見えた。すると、ゆきが思わず本音をこぼした。
「だから私が湊と…!」
その言葉に、部屋の空気が一瞬止まった。湊と菜月が顔を見合わせ、渋い表情を浮かべた。ゆきは菜月と湊が互いに思い合っていることを、ずっと前から薄々感じていた。だが、義理の姉弟という関係に縛られ、どうにもならないもどかしさを抱えていたのだ。菜月が成人した頃、弁護士の佐々木から、血の繋がらない二人なら結婚が可能だと知らされ、ゆきは密かにその可能性を願っていた。
「湊?湊がどうしたんだ」
郷士が怪訝そうに眉を上げた。
「あ、あら。なんだったかしら」
ゆきは慌てて言葉を濁し、誤魔化すように笑った。だが、その困り顔は隠しきれなかった。菜月はゆきの動揺を察し、茶封筒を手に立ち上がった。
「もう、お母さんったら」
と軽く笑いながら、場の空気を和らげようとした。湊もまた、照れ隠しに小さく咳払いをした。
「お母さん、湊と私は…その、別にそんなんじゃないよ」
菜月の声は少し震えていたが、どこか晴れやかな響きがあった。彼女は封筒を胸に抱き、過去の重荷をようやく下ろした安堵を感じていた。湊はそっと菜月の肩に手を置いた。
「まあ、母さんの思い込みは置いといて、これで新しいスタートが切れるね」
と笑った。その笑顔には、菜月を支えたいという静かな決意が込められていた。ゆきは頬を赤らめ、「あら、余計なことを言っちゃったかしら」と呟きながら、湯呑みを手に取った。郷士はそんな妻を愛おしそうに見つめ、「お前も大概、口が滑るな」とからかった。
家族の笑い声が、座敷に小さく響いた。 窓の外では、庭の木々がそよ風に揺れ、鹿威しの音が穏やかに響いた。
カコーン。
ほうじ茶の湯気が立ち上り、部屋に温かな空気が広がった。菜月は封筒を手に、湊の笑顔を見つめながら、これからの日々に希望を見出していた。過去の痛みはまだ胸に残るが、家族の絆と新しい未来への一歩が、彼女の心を軽くしていた。
「さて、これからどうするんだ、菜月」
郷士が改めて尋ねると、菜月は少し考えてから答えた。
「幸せになりたい」
「そうね、幸せにおなりなさい」
ゆき は何も言わなかったが、菜月と湊の顔を交互に見た。菜月は思わず頬を染め、湊は照れ臭そうに視線を逸らした。
「なんなんだ一体」
「なんでもありません」
郷士は頭を傾げたが、座敷にはあたたかな日差しが差し込んだ。
ひとり話題から取り残された郷士は難しい顔をした。眉間に刻まれたシワが、まるで彼の内心のざわつきを映し出しているようだった。多摩さんの様子をそっと窺うと、彼女は穏やかな笑みを浮かべ、静かに湯呑みを手に持っていた。その和やかな表情に、郷士は自分だけが菜月と湊の話題から爪弾きにされているような疎外感を覚えた。心のどこかで、家族の会話の輪から取り残された寂しさがざわめいた。
その時、菜月が茶封筒を手に立ち上がった。
「それじゃ、市役所に行ってくるね」
彼女の声は軽やかだったが、どこか決意に満ちていた。
「なんだ、もう行くのか。昼飯を食べてからでも良いだろう」
郷士は湯呑み茶碗を手に、温くなったほうじ茶を啜りながら呟いた。茶の香りはほのかに部屋に漂い、庭の鹿威しのカコーンという音が静かに響いた。すると、ゆきが座敷テーブルを布巾で拭きながら、郷士を優しく、しかし少し厳しく諫めた。
「郷士さん、良きことは午前中に済ませた方が良いんですよ?」
「離婚が良いことなのか?」
郷士の言葉には、半ば意地っ張りな響きがあった。ゆきは動きを止め、厳しい目で郷士を睨んだ。彼女の手の中で、茶托がカチャリと音を立てて盆に重ねられた。その音は、まるでゆきの苛立ちを強調するようだった。
「良いことですよ!あんなお婿さんよりも湊の方が!」
ゆきの声は思わず高ぶり、言葉が部屋に響いた。菜月と湊は同時に渋い顔でゆきを見た。菜月は茶封筒を握る手に力を込め、湊は小さく咳払いをして視線を逸らした。ゆきは二人の反応に気づき、慌てて目を泳がせ、口ごもった。
「だから湊がどうしたんだ」
郷士が怪訝そうにゆきを追及した。
「あらあら、菜月さん、湊に送ってもらうんでしょ?」
ゆきは誤魔化すように笑い、慌てて立ち上がると湊の背中を軽く押した。その仕草には、気まずさを隠そうとする必死さが滲んでいた。湊は苦笑しながら、「はい、行って来ます」と短く答えた。菜月も「行って来るよ」と続き、ゆきに促されるまま玄関へ向かった。
「気をつけて行ってくるのよ」
ゆきの声は、まるで母親らしい気遣いに戻ったかのように柔らかかった。 なにやら腑に落ちない表情の郷士を後に、湊は車の鍵を手に取った。古い家の廊下を歩く二人の足音が、静かな座敷に小さく響いた。郷士は湯呑みを手に、独り言のように呟いた。
「なんなんだ、湊、湊って」
その声には、家族の変化についていけない戸惑いと、どこか愛らしい不器用さが混じっていた。座敷に残された多摩さんは、静かに微笑みながら茶を淹れ直していた。ほうじ茶の湯気が立ち上り、部屋に穏やかな香りが広がった。ゆきは郷士の隣に腰を下ろし、布巾を手に持ったまま小さく溜め息をついた。
「郷士さん、ほんと鈍いんだから」と呟くと、郷士は「なんだと?」と軽く睨み返した。外では、湊の運転する車がエンジンをかけ、ゆっくりと家の前の道を走り出した。菜月は助手席で茶封筒を手に、窓の外を眺めていた。通り過ぎる庭の木々や、遠くで響く鹿威しの音が、彼女の心に静かな安堵をもたらした。封筒の中には、過去の重荷を清算する離婚届と、新たな未来への一歩が詰まっていた。
「湊、ありがとう。付き合ってくれて」
菜月の声は控えめだったが、感謝の気持ちが込められていた。
「菜月の大事な日だもの、付き合うよ」
湊の軽い口調には、姉弟を超えた深い絆が感じられた。 車は市役所へ向けて走り、道端のアメリカ楓の木々が秋の訪れを予感させるように揺れていた。菜月は封筒を胸に抱き、湊の横顔を見ながら、これからの日々に小さな希望を見出した。過去の傷はまだ癒えきらないが、家族の支えと湊の存在が、彼女に新しい一歩を踏み出す勇気を与えていた。