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湊の交通事故で負った傷は日毎に回復し、日常を取り戻しつつあった。医者の許可を得て車の運転も再開していたが、事故現場となった陸橋を越えた坂道に差し掛かると、無意識のうちに足がブレーキペダルに伸びていた。ハンドルを握る手には汗が滲み、心臓がわずかに速く鼓動するのを感じた。
「あ、この交差点だね」
菜月の声は静かだったが、どこか緊張を帯びていた。
「ここに来るとやっぱり怖いね」
湊はハンドルを握る手に力を込め、唇を軽く噛んだ。サイドミラーを照らす日の光が、まるで過去の記憶を呼び起こすかのように眩しかった。菜月は隣で、湊の横顔をじっと見つめた。その顔には、事故の瞬間の恐怖が今もなお色濃く残っているようだった。
「事故の時を思い出すのね」
菜月の声は優しく、湊の心に寄り添うようだった。
「ブレーキが踏めなかった時、もう駄目だと思った」
湊の声は低く、フロントガラスを見つめる目に、過去の恐怖が滲み出ていた。あの日、急に効かなくなったブレーキ、コントロールを失った車、耳をつんざく衝突音・・・その全てが、まるで昨日のことのように脳裏に蘇った。菜月は怪訝そうな表情で湊の横顔を見つめ、胸にざわめく疑惑を抑えきれなかった。
「湊、あの事故はやっぱり…」
「なに、どうしたの?」
湊が顔を上げ、菜月の目を見た。その視線には、純粋な疑問と、どこかで真実を避けたいような不安が混じっていた。菜月は一瞬言葉に詰まり、茶封筒を握る手に力を込めた。
「あれは…」
彼女の頭には、竹村に連行された賢治の姿、刑事の口から漏れた「指紋」という言葉、そして湊が普段飲まないペットボトルのコーヒーが脳裏をよぎった。不自然に開封された段ボールケース、その中の一本が偶然ブレーキペダルの下に転がり込んでいた…あまりにも出来すぎた偶然だった。
「あの事故を計画したのは」
菜月は、湊の交通事故に賢治の不倫相手、如月倫子が関わっているのではないかと考えていた。賢治一人では、あのような計画的な仕掛けをするとは思えなかった。倫子の影が、事故の裏にちらついている気がしてならなかった。
「賢治さんが一人であんな事をするとは思えないの」
菜月の声は、確信と怒りに震えていた。
「どういう事?」
湊の眉がわずかに上がった。
「如月倫子がそそのかしたのよ」
「証拠がないよ」
湊の声は冷静だったが、どこか疲れた響きがあった。
「賢治さんだけじゃないわ」
「それは警察に任せよう」
湊は短く答え、視線を再びフロントガラスに戻した。坂道を下りきり、信号が青に変わると、車は静かに走り出した。菜月は唇を噛み、窓の外を流れる街並みを眺めた。彼女の心には、賢治への怒りと、倫子への疑惑が渦巻いていた。だが、湊の言う通り、証拠がない以上、彼女の思いはただの推測に過ぎなかった。それでも、胸の奥で燻る不信感は消えなかった。車内にはしばらく沈黙が流れた。
「……」
菜月は茶封筒を手に、離婚届を提出することで過去を清算する決意を新たにした。だが、事故の真相が明らかにならない限り、心のどこかに引っかかりが残ることを感じていた。
「湊、あの事故・・・本当にただの事故だったと思う?」
菜月の声は小さく、まるで自分自身に問いかけるようだった。湊は一瞬ハンドルを握る手に力を込め、ゆっくりと答えた。
「わからない。でも、菜月が心配しても仕方ないよ。竹村に任せよう」
その言葉には、菜月を安心させたいという思いと、自分自身を納得させたいような響きがあった。
「じゃあ、車を停めてくるから。一人で行ける?」
「行けるわ!もう2度目だもの!」
「あぁ、婚姻届と離婚届ね…」
「そう!」
市役所に着くと、菜月は車を降り、封筒を胸に抱いた。
「あの公園で待ち合わせしよう」
「分かった!」
湊は、市役所の向の緑地公園を指差した。
菜月は満面の笑みで横断歩道の向こう側で手を振っていた。腕に茶封筒はなく、離婚届は市役所に受理され、賢治との離婚がようやく成立した。これで再婚禁止期間の100日が過ぎれば、菜月と湊の婚姻が正式に認められる。
湊は公園のベンチに腰掛け、穏やかな笑顔で小さく手を振り返した。秋の風がアメリカ楓の葉を優しく揺らし、赤と黄の葉が地面に舞う。
賢治の不倫が発覚したのは、桜が舞い散る春の頃だった。あの時、菜月の心は冷たい風に震え、裏切りの痛みに苛まれた。だが、今、短くも長く感じられた苦痛の時は終わりを告げた。
湊の温かな眼差しが、菜月の心に新たな光を灯す。公園の木々は静かに色づき、未来への希望をそっと囁くようだった。菜月は深呼吸し、湊の隣に腰を下ろした。二人の手がそっと触れ合い、穏やかな時が流れる。過去の傷は癒え始め、未来への一歩がここから始まる。秋の陽光が、二人を優しく照らしていた。
「菜月、離婚おめでとう」
「おめでとうって、お父さんが言うみたいにやっぱり変だけど…ありがとう」
「長かったね、頑張ったね」
菜月は小さく頷くと、ありがとう。と微笑んだ。菜月と湊は穏やかに見つめ合い、そっとその手を重ね合わせた。指先に温かな血潮が脈打ち、互いの心からの思いが静かに、しかし確かに伝わった。これで二人は、義理の姉と弟という関係を超え、互いを支え合うかけがえのない存在へと変わる。いたずらな秋風が菜月の髪を軽やかに巻き上げ、赤と黄のアメリカ楓の葉が公園の地面に舞い落ちる。
湊の温かな眼差しは、菜月に新たな希望を与え、過去の苦しみをそっと癒していく。ベンチに並んで座る二人の間には、言葉を超えた信頼が芽生えていた。秋の陽光が二人を優しく包み、木々のざわめきが未来への祝福のように響く。菜月は湊の手を握り直し、穏やかな笑みを浮かべた。新たな人生が、静かに、しかし力強く始まろうとしていた。
「菜月、少し歩かない?」
「うん、風が気持ちいいね」
二人は秋色に色付いたアメリカ楓の並木道を手を繋いで歩いた。湊の口元は綻び、とても嬉しそうだった。菜月も思わず笑顔になる。幸せな時間が菜月と湊を包んだ。石畳を歩いていると、湊の頭を透明な揺らぎが掠めた。七色に光るシャボン玉だった。
「わぁ、シャボン玉」
菜月が背を伸ばして手に取ろうとしたが、それは天高く舞い上がった。
「僕たちもよく庭で遊んだね」
「シャボン玉の石鹸で石楠花をビチャビチャにして怒られたね」
「あの時の父さんは鬼だったね」
「うん、怖かった」
公園の芝生広場で、小さな男の子が母親とシャボン玉で遊んでいた。透明なシャボン玉が秋の陽光にきらめき、軽やかな風に舞い上がる。菜月はその光景を眺め、懐かしい記憶に心を馳せた。まだ幼かった頃、菜月と湊は綾野の家の庭で同じようにシャボン玉を追いかけ、笑い合った。あの無垢な時間は、互いを義理の姉弟としてではなく、純粋な遊び相手として結びつけていた。色とりどりのシャボン玉が弾けるたび、二人の笑顔が響き合った記憶が、菜月の心に温かくよみがえる。賢治の不倫で傷ついた日々を乗り越え、今、湊との新たな絆がここにある。菜月が穏やかに微笑むと、湊はそっと身を屈め、優しく口付けた。
菜月は重なった唇の感触を震える指先でなぞり、頬を赤らめて湊を見上げた。湊の眼差しは凪の海のように穏やかで、彼女を優しく包み込んだ。
「これで僕は、菜月の物だよ」
「私の物なの?物って、湊は物じゃないわ」
照れ臭さを隠すように、菜月は目線を逸らしてシャボン玉を見た。
「ずっと一緒にいる」
「ずっと?」
「ずっと、どんな時も一緒だよ」
湊は菜月を引き寄せると、その華奢な体を抱きしめた。互いの熱と鼓動の音が伝わった。
「湊、それってプロポーズみたいね」
「なに寝ぼけた事言ってるの」
「そうなの?」
「菜月、僕のお嫁さんになって下さい」
あの日、小学生だった湊は、鹿脅しが鳴り響く奥の座敷で鉛筆を握った。夏の暑い盛りだった。どこまでも高く青い空に白い入道雲が両手を伸ばしていた。湊は顔を真っ赤にして、中学生の菜月の手を握った。
「ふふ、あの時の願い事と同じセリフだね」
「笑わないの!返事は?」
「お嫁さんにして下さい」
「やったー!」
ふと目線を足下に落とした湊は、その場にしゃがみ込んだ。菜月は不思議そうにその姿を見下ろした。
「湊、なにしてるの?」
「四つ葉のクローバーを探してるの」
「幸せの四つ葉のクローバー?」
「うん」
「そんなに簡単に見つからないわよ」
なにかを思いついた菜月は、ふぅと髪を掻き上げてその隣に屈んだ。
「ねぇ、湊」
「なに?見つかった?」
「湊がいれば、四つ葉のクローバーは要らないわ」
菜月は、真剣な表情でクローバーの群れを掻き分けている湊の頬に口付けた。湊は顔を赤らめると、その感触を確かめるように頬を押さえた。そこで、近くでシャボン玉を吹いて遊んでいた男の子が叫んだ。
「あ!ママ!男の人が男の人とチューしてる!」
「こ、こらっ!」
「チューしてる!」
「やめなさい!もう!ご、ごめんなさい」
「チュー!チュー!」
「やめなさい!」
公園の芝生広場で、幼い男の子が無邪気に遊んでいた。ショートヘアにパンツ姿の菜月をじっと見つめ、「男の人」と大きな声で言った。母親は顔を赤らめ、慌てふためきながら男の子をベビーカーに乗せた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も頭を下げ、恥ずかしそうに足早に公園を後にした。菜月と湊は軽く会釈し、顔を見合わせてくすっと笑った。ほんの一瞬の出来事が、二人の心を軽やかにしたさっきの男の子の無垢な勘違いも、今は愛らしいエピソードとして二人の笑顔を彩る。
「私、男の人に見えるかな?」
「菜月がそんな格好をしているからだよ」
「パンツ姿もなかなか良いでしょ?」
「僕は、ワンピース姿の菜月が好きだな」
「…分かった。髪は伸ばすわ」
そこで忙しなく動いていた湊の指先が止まった。
「あっ!」
「あった!?あったの!?」
残念ながら、湊が手にしたのは三つ葉のクローバーだった。
アメリカ楓の葉に隠れていたのは三つ葉のクローバーだった。湊は残念そうに唇を尖らせ、そのうちの一本を優しく摘んだ。
「ちぇっ、四つ葉だと思ったのに!」
「良いのよ、湊がくれる物ならなんでも」
湊は菜月の顔を残念そうに見ると、器用な手つきでくるりと輪を作った。青い草の匂いがした。
「菜月、手を出して」
「…うん」
湊は菜月の左手の薬指に、三つ葉のクローバーの指輪をゆっくりと嵌めた。
「あの日もこうして指輪を作ってくれたわ」
「そうだね」
小学生だった湊は、公園の芝生に座り、辿々しい手つきで三つ葉のクローバーを編み、指輪を作った。細い茎が絡まり、形は少し歪で、決して良い出来とは言えなかった。それでも菜月は、ひまわりのような眩しい笑顔を咲かせ、湊に飛びつくように抱きついた。幼い二人の無垢な喜びが、夏の陽光の下で輝き、心を温かくつないだ。
「二個目のエンゲージリングだわ」
「今度は本物の指輪をあげるよ」
「これも本物だわ」
菜月は芝生に座り、三つ葉のクローバーを丁寧に編んで指輪を作った。幼い頃の湊が作ってくれた思い出をなぞるように、彼女は優しく微笑みながら、湊の左手の薬指にその指輪をゆっくりと嵌めた。だが、不器用に編まれたクローバーの指輪は、頼りなくもろく、あっけなく芝生の上にポロリと落ちた。菜月と湊は顔を見合わせ、くすっと笑い合った。
「あっ」
「あーあ、菜月は本当に不器用だなぁ」
「そんなこと言わないで!」
二人が笑い合っていると、教会の鐘が幸せの音を刻んだ。菜月と湊はその響きに耳を澄ませた。
「ねぇ、菜月」
「なに?」
「菜月は永遠の愛を誓いますか?」
菜月は小さく何度も頷いた。目尻にはダイヤモンドのように光る涙が滲んでいた。
「誓います」
「幸せになろうね」
「もっと、もっと幸せになろうね」
菜月と湊は手を取り合い、芝生から立ち上がった。
「痛っ。」
「いた?なにがいたの?」
「なんだか腰が、背中が痛い」
湊は腰の辺りを摩りながら顔を顰めた。
「ええ、おじいちゃんみたいな事言わないでよ」
「なに、僕がおじいちゃんになったら嫌なの」
「その時は私もおばぁちゃんだから許す」
「なんだよ、許すって!」
湊は芝生を軽く蹴り、弾けるような笑顔で菜月を追いかけた。菜月のゆるいウェーブの髪が秋風に揺れ、陽光にきらめく。二人は子供のようにはしゃぎ、笑い声が公園に響き合う。湊の手が菜月の細い手首をそっと掴むと、時間は一瞬止まったかのようだった。互いの頬は紅潮し、胸の鼓動がシンクロする。「生きている」と、菜月はその幸せを全身で感じ、大きく深呼吸した。
「ねぇ、菜月」
「なに」
「男の子が良いな」
「男の子?」
湊が菜月の耳元で囁いた。
「僕たちの赤ちゃん」
「赤ちゃん、湊は気が早いのね」
「男の子なら、きっと菜月を大切にするよ」
「そうかなぁ」
「僕の子どもだもの、大切にするよ、きっと」
菜月は湊の目を見つめ、未来への希望に胸を膨らませた。生きることの喜びが、二人を優しく包む。天高く舞い上がったシャボン玉がパチンと消えた。