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いよいよ決戦前夜、という空気感がひしひしと伝わってきました。陽翔くんがブラシを「ママの、返す」と差し出す場面、本当に胸が詰まりました……五歳で一年間も秘密を抱える重みを思うと。そして「歯は一本もいじってない」という東雲先生の伏線の回収、見事でした。玲司さんの「震えさせておくつもりはない」という言葉にも、ぐっときましたね。次の展開、待ちきれません。
あの日、私は、お義母さまの問いに答えられなかった。
「……少し、時間をください」
それだけ言って、欠けた茶碗を両手で返した。
お義母さまは、茶碗を受け取り、欠けを内側に向けて、膝の前に置いた。
「一周忌まで、待つわ」
炉の炭が、ぱちりとはぜた。
「それより先は、待たない。あの子が、陽翔をどこかへやってしまう前に」
*
日曜日の午後、陽翔の部屋で、洗濯物を畳んでいた。
陽翔は、ベッドの上で、ぴょんたの耳を結んだりほどいたりしていた。
観月会のあとから、幼稚園の連絡帳には、毎日同じことが書かれていた。お弁当は全部食べました。でも、お友だちと遊ばずに、窓の外ばかり見ています。
階下で、蒼真が電話をしている声がした。
寄宿学校の入学手続きの書類を、急ぎで送ってほしい、と。
電話を切った声が、階段の下から上がってきた。
「凛さん。陽翔のパスポートの写真、今週中に撮っといてくれ。白い背景のやつ」
「かしこまりました、旦那様」
凛として、そう答えた。
この子を遠くへやるための写真なら、一枚だって撮るつもりはなかった。
私は、最後の靴下を畳んで、ベッドの端に座った。
「陽翔」
二人きりのときだけ、私は、この子の名前を呼ぶ。
「スイスの学校のこと、ママ、ちゃんと話しておくね」
陽翔の指が、ぴょんたの耳の上で止まった。
「パパは、本気で、陽翔をあそこへやろうとしてる。書類も、もう頼んでる。……ママは、それを止めたい。止めるために、準備をしてる」
嘘はつかなかった。
大丈夫だよ、とも言わなかった。この子は、大人の大丈夫が、一番あてにならないことを知っている。
「でも、あと少しだけ、時間がいるの。だから、あと少しだけ、待って」
陽翔は、しばらく黙っていた。
それから、ベッドから下りて、床に腹ばいになった。
ベッドの下から、ブリキの宝箱を引っぱり出す。蓋の真ん中に、去年の春に私が貼った電車のシール。
積み木。どんぐり。押し花になりかけた紫陽花。
いちばん底の、タオルの包み。
陽翔は、タオルをほどいた。
木の柄のヘアブラシだった。
柄は、この子の手の脂で、黒く光っていた。一年間、毎晩、握られてきた色だった。
「ママの、返す」
陽翔は、両手で、ブラシを私に差し出した。
「ぼく、もう、隠さなくていい日が来るんでしょ」
言葉が、出なかった。
この子は、一年間、このブラシを隠してきた。
パパにも、麗奈にも、おばあちゃまにも。私が死んだと聞かされた日から、ずっと。
受け取ったブラシは、温かかった。
この子に、これを背負わせた。
五歳の子に、一年分の秘密を。私が名乗らなかったせいで。
「……うん」
私は、ブラシを胸に抱いた。
「来るよ。もうすぐ、来る」
守れない約束には、使わないと決めていた。
だから、今、決めた。この約束だけは、何があっても守る。
陽翔が、背伸びをして、私の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
私も、小さな耳を、二回叩き返した。
陽翔の口が、にっと横に広がった。
下の前歯の抜けたところに、白いものが、ほんの少しだけ顔を出していた。
*
月曜日、聖和医大の東雲先生の診察室に、四人が集まった。
東雲先生。玲司さん。水無瀬刑事。
それから、私。
ドアに鍵をかけたのは、今日も東雲先生だった。
「口、開けて」
回転椅子を寄せて、東雲先生が言った。
私は、診察台の上で、言われるままに口を開けた。
「白樺台の駅前の歯医者。去年の秋まで、三か月ごとに通ってたね。レントゲンが四枚と、治療の記録が五年分」
「……よく、出してくれましたね」
「出させたのは、こっちの刑事さん」
東雲先生は、顎で水無瀬刑事を指した。
水無瀬刑事は、窓際で、ミントガムを噛みながら肩をすくめた。
「捜査関係事項の照会ってやつです。歯医者の先生、亡くなった奥さんのカルテがなんで今さら、って、首をひねってましたけどね」
東雲先生は、私の口の中に小さな板を入れ、レントゲンを撮った。
それから、診察台の横の画面に、二枚の写真を並べた。
「結果は、歯科の先生に正式に見てもらう。その紙は、明日出る」
東雲先生は、画面を見たまま言った。
「でも、私の目で見ても、言うことは同じだよ」
*
「当日の段取りを決めましょう」
水無瀬刑事が、手帳を開いた。
「本部の一課が、逮捕状の請求を十九日に出します。裁判所が出すのは、早くて、その日の夜。……二十日の朝には、俺の上着のポケットに入ってる」
「会場は、ホテル・グランメールの翠の間」
玲司さんが、図面を広げた。
ホテルの宴会場の、案内図だった。
「祭壇は正面。記者席は左手の後方。親族席は右の前。俺は、陽翔の隣に座る。陽翔を祭壇の前に出さないためだ」
「私は」
「控室も、受付も通らない。廊下の、この扉の前で待つ」
玲司さんの指が、図面の端の、小さな扉の印の上で止まった。
「蒼真が、マイクの前に立って、話しはじめたら」
「扉を、開けます」
私の声は、思ったより落ち着いていた。
「証拠の順番は、決めておく」
水無瀬刑事が、指を折った。
「歯の照合。保険の書類の筆跡。堂島のロッカーの中身と供述。それから――」
「録音機」
玲司さんが言った。
「義母が出すかどうかは、まだわからない。……出なくても、ホースと堂島の供述で、逮捕状は出る。だが、あれがあれば、あいつに言い逃れの余地は、一つも残らない」
私は、膝の上の鞄の口から、手袋の指を差し入れた。
陽翔に返されたブラシを、あの日から、私は鞄に入れて持ち歩いていた。黒く光る柄を、中で握った。
あなたは、私に、何をくれるの。
お義母さまの声が、耳の奥に残っていた。
「最後に、何を言うか」
玲司さんが、図面から顔を上げた。
「それは、あなたが決めろ。俺も、水無瀬さんも、そこには口を出さない」
「……はい」
「何を言ってもいい。何も言わなくてもいい」
玲司さんは、図面を畳みながら、声を落とした。
「ただ、あいつが話しはじめて五分たっても扉が開かなかったら、俺が迎えに行く。……扉の向こうで、一人で震えさせておくつもりはない」
水無瀬刑事が、窓のほうを向いて、わざとらしく咳をした。
「私も、行くよ」
東雲先生が、回転椅子を一回転させた。
「縫った顔が、人前でどう動くか、見届けるのも医者の仕事だからね。記者のカメラに、引きつったとこ撮られたら承知しないよ」
「……気をつけます」
「それと、一つだけ」
水無瀬刑事が、手帳を閉じかけて、また開いた。
「堂島に、弁護士がつきました。旦那の会社の弁護士じゃない。本人が留置場から頼んだ、街の弁護士です」
玲司さんの眉が、わずかに動いた。
「あいつは、何でも金に換えようとする男です。自分が喋ったことでも、売れると思えば、外へ売る。……弁護士の口を通してでもね」
水無瀬刑事は、ガムを包み紙に吐いた。
「一周忌まで、あと十日あまり。夜は、部屋の鍵を忘れずに」
帰りの車の中で、私は、鞄からブラシを出して膝にのせた。
玲司さんは、それをちらりと見た。
「離れで、預かろうか」
「いいえ」
私は、黒く光る柄を、手袋の指で包んだ。
「これは、私が持っています。陽翔に、返してもらったものですから」
玲司さんは、前を向いたまま、口元をゆるめた。
「そうだな。……それは、あなたのものだ」
信号が青に変わるまで、玲司さんの左手が、ブラシを握る私の手の上に、そっと置かれていた。
*
翌日の夕方、東雲先生から、もう一度呼ばれた。
診察室には、東雲先生しかいなかった。
机の上に、一枚の紙が、裏返しに置いてあった。
「座んな」
東雲先生は、パーカーの袖をまくり直した。
「四月の、退院の日。私、なんて言ったか覚えてる?」
「……医者が直すのは顔まで。名前は、あんたが自分で取り戻しな」
「そう」
東雲先生は、少しだけ笑った。
この人が笑うのを見たのは、数えるほどしかなかった。
「顔は、私が作った。別人の顔をね。……でも、歯は、一本もいじってない。いじらなかったんだよ。いつか、こういう日が来ると思って」
東雲先生は、紙を、指で表に返した。
「一致した。あんたは、法的にも御影澪だよ」
紙の上の、細かい文字が、にじんで読めなかった。
「……あとは、生きてるって言うだけ」
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
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