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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
一周忌の三日前の夕方、書斎の電話が鳴った。
私は厨房で、翌朝の甘酒を仕込んでいた。
竪穴を伝って降りてきた蒼真の声は、最初、ひどく面倒くさそうだった。
「堂島の、弁護士? ……うちとは、もう関係ない男です」
それから、声が途切れた。
長い沈黙だった。
鍋の中で、米麹の粒が、ふつふつと小さな泡を立てていた。
「……助手席から?」
蒼真の声が、低くなった。
「助手席から、女が這い出した。……そう言ってるんですか、堂島が」
私は、木べらを持ったまま、動けなくなった。
「顔は見てない? じゃあ、何の話にもならないでしょう。……御影の嫁? あいつ、何を言って――」
椅子が、床をこする音がした。
「DNAは、違ったんですよ。こっちで、ちゃんと調べた。……いや、何でもない。何でもありません」
受話器の向こうの声は、聞こえなかった。
けれど、蒼真が何を言われたのかは、わかる気がした。
堂島は、何でも金に換える男だ。
水無瀬刑事は、そう言っていた。
「金? ……ふざけるな。あいつに払う金なんか、一円も残ってない」
受話器が叩きつけられた。
それから、何かが割れる音。グラスだった。
*
夜の十時、書斎に呼ばれた。
「氷を。それと、グラスを、もう一つ」
床の割れたグラスは、蒼真が自分で拾ったらしかった。
くず籠の中で、ガラスの破片が光っていた。指を切ったのか、ティッシュに赤い点が一つ。
私は、新しいグラスと氷を、机の端に置いた。
「凛さん」
蒼真は、椅子の背にもたれて、私を見上げた。
目が赤かった。酒のせいだけではなかった。
「事故の報告書に、書いてあったんだよ。助手席の女性は、運転席の窓の下に倒れていた、って」
九月にも、この人は同じことを言った。
命の恩人だ、と。澪の最期に、そばにいてくれた人だ、と。
今夜は、声の温度が違った。
「君は、あの夜、助手席から這い出したんだろ。それで、わざわざ運転席のほうへ回った。……燃えてる車の、窓の下まで」
「……何も、覚えておりません」
「澪を、引っぱり出そうとしたのか」
氷が、グラスの中で、小さく鳴った。
「それとも」
蒼真は、身を乗り出した。
「引っぱり出そうとしたのは、澪のほうだったのか」
息を、止めた。
顔に出してはいけない。
手を、動かすのだ。私はいつも、手を動かしながら考えてきた。
私は、机の上の濡れた輪を、布巾で拭いた。
「旦那様。お酒が、過ぎていらっしゃいます」
凛として、そう言った。
本当は、この人の目の前で、その通りよ、と言ってやりたかった。あなたの妻は、燃える車から、あなたが殺し損ねた体を引きずって這い出したのだと。
蒼真は、しばらく私の手元を見ていた。
布巾を持つ、右の手袋を。
「……下がっていいよ」
書斎の扉を閉めたとき、背中に、まだ視線が貼りついている気がした。
*
渡り廊下の手前で、お義母さまが待っていた。
寝間着の上に、羽織を重ねて。
胸元に、手のひらを当てたまま。
「あの子、夕方に、何か割ったわね」
「……グラスを、一つ」
お義母さまは、洋館の二階を見上げた。
書斎の窓の灯りが、庭の木の枝に落ちていた。
「今夜は、和館で寝なさい。客間が空いているわ」
麗奈が寝起きしていた部屋だった。
雨戸を閉めたまま、付け爪の空き箱だけが残っている部屋。
「お心遣い、ありがとうございます、大奥様」
私は、頭を下げた。
「でも、いつも通りにいたしませんと。家政婦が急に寝場所を変えたら、旦那様は、何かあったと思われます」
あと三日。
三日だけ、何も気づかれずに、凛でいなければならなかった。
お義母さまは、しばらく私の顔を見ていた。
「……強情なところは、変わらないのね」
それだけ言って、渡り廊下を戻っていった。
三枚目と七枚目の板を、今夜は跨いで。羽織の背中が、いつもより少しだけ丸かった。
*
半地下の部屋に戻ると、私は内側から鍵をかけた。
それから、ドアノブの下に、椅子の背を噛ませた。
厨房の鍵掛けには、この部屋の合鍵がある。八月に、蒼真がそれで入って、私のブラシから髪を抜いていったことを、私は忘れていなかった。
スマホに、玲司さんからメッセージが届いていた。
「離れの灯りは、朝までつけておく」
窓の外は、地面すれすれの暗がりだった。
天井近くの小さな窓からは、人の足首しか見えない。
「旦那様が、堂島さんの弁護士から電話を受けました。助手席の女のことを、知ったようです」
送ると、すぐに返事が来た。
「今夜は、眠るな。何かあったら、一行でいい。送れ」
私は、服を着たまま、鉄のベッドに横になった。
古いガスストーブが、部屋の隅で黙っていた。
十一月に入ってから、何度か火を入れた。点けるたびに、壁の穴へ続く古いゴム管が、つんと匂った。
ボイラーの唸る音。
洋館の奥の、使われない浴室の配管が、こん、と一度鳴る音。
この家の夜の音なら、目をつぶっていても全部わかる。
三年、この家の嫁として、夜中に陽翔の熱を見に起きるたびに聞いてきた音だった。
一時が過ぎた。
玲司さんから、一度だけメッセージが来た。
起きているか。
起きています、と返した。
天井近くの窓から、離れの灯りは見えない。
それでも、ついているのだとわかっていた。六月の夜から、あの人は、灯りをつけておくと言った夜に、一度も消したことがなかった。
一時半が過ぎた。
*
二時を、少し回ったころだった。
ぎい、と、木が鳴った。
大階段の、下から十三段目。
体が、ベッドの上で固まった。
家の者は、あの段を跨ぐ。
蒼真が踏むのは、ひどく急いでいるときか、酔っているときだけ。
一年前の、あの夜と同じ音だった。
足音が、玄関ホールを横切った。
厨房へ。厨房の奥の、半地下へ下りる階段へ。
一段ずつ、ゆっくりと。
手すりに体を預けているのか、踏むたびに、木の擦れる音がした。
足音は、私の部屋の前で、止まった。
スマホを握った指が、冷たくなった。
ドアノブが、ゆっくりと回った。
鍵が、それを止めた。噛ませた椅子の背が、かたん、と小さく鳴った。
「……凛さん」
酒の匂いのしそうな声だった。
ドア一枚の向こうで、蒼真が、額を板につけているような気がした。
「起きてるだろ。……灯り、消えてるけど、起きてるよな」
私は、息を殺した。
「DNAは、違ったんだ。君は、澪じゃない。わかってる」
声が、少し笑った。
「なのに、なんで、同じとこに傷があるんだよ。なんで、あいつと同じ手つきで、皿を拭くんだよ」
指の傷が、手袋の中で、脈を打った。
「堂島がな、喋ってるんだ。燃える車の、助手席から、女が這い出したって。……君だよな。君が、這い出したんだよな」
ドアが、外から、とん、と一度、叩かれた。
「凛さん。君が、あの夜のことを思い出したら」
声が、急に、静かになった。
「僕は、困るんだ」
私は、スマホの画面に、一行だけ打った。
ドアの前に、旦那様が。
送信しようとした指が、止まった。
今、玲司さんがこの母屋へ飛びこんでくれば、蒼真は何かに気づく。三日後の、あの扉が、開く前に壊れてしまう。
足音が、ドアの前から離れた。
半地下の廊下を、奥へ。
ボイラー室のほうへ。
それから、何かを動かす、低い音がした。
金属が、床をこするような音。
その音が、ゆっくりと、こちらへ戻ってきた。
ドアの前で、一度止まった。
やがて、足音は、半地下の階段を上っていった。
厨房を抜け、玄関ホールへ。そこから、大階段を二階へ。
十三段目は、鳴らなかった。
下りてくるときは、踏んだ段だった。
上がっていくときは、跨いだのだ。酔った足で、わざわざ。
音を、立てないために。
私は、打ちかけた一行を消して、別の言葉を打った。
足音は、遠ざかりました。来ないで。
送信した。
暗がりの中で、長く、息を吐いた。
その息を吸いこんだとき、喉の奥に、何かが引っかかった。
ドアの隙間から、ガスの匂いがした。
コメント
1件
もうめっちゃドキドキした……!「十三段目」って音だけでここまで緊張させられるのズルいわ。凛さんの冷静な演技と、蒼真の酔った声の温度差が半端なかった。「僕は困るんだ」の静かな声に背筋が凍ったよ。最後のガスの匂いで今夜は眠れそうにないわ。続きが気になりすぎる🔥