彼はきっと、自分のことを傷つけるのを楽しんでいるのだと思った。そうとしか考えられなかった。何度怒っても、泣いて縋り付いても、彼は行動を改めず、自分が取り乱している様をなぜか嬉しそうに見つめるのだった。自分の心が壊れていくのを感じた。彼から離れる必要があることなどとっくに気づいていた。それでも彼の「愛してる」を愚直にも信じていた。そして限界が訪れた時、完全に自分という人間が壊れてしまったのだと感じた時、こう強く思ったのだ。復讐をしなきゃいけない、と。
「ごめんなさい」
若井滉斗は青白い顔のまま、観念したようにぎゅっと目を瞑り呟くように言った。
「ごめんなさい」
その指は祈るように力強く組まれ、関節が白く浮きでるほどだった。
「でも、俺たちはこうするしかなかった。少なくとも、彼を救うにはこうするしかなかったんです」
「……彼とは藤澤涼架さんのことですね?」
田村の静かな声に、彼はゆっくりと頷いた。
「救う、というのは?」
畳みかけるように質問すると、彼はその唇を震わせながら開いた。何かに迷うように、視線を彷徨わせる。
「りょう、ちゃんは、元貴から、暴力うけてて」
「その件に関して警察などに相談しようとは思わなかったんです?」
彼は今にも泣き出しそうに顔を歪めながらぶんぶんと首を振った。
「法的措置とか、そんなの待ってる余裕なくて……いや、考えにすらなかったんです。それぐらい涼ちゃんの心は限界だった。そうじゃなきゃ、こんな計画してないです」
「今回の狂言について、計画したのは藤澤さんですか?」
「……大枠は彼だけど、俺も手伝いました。それこそ彼をずっと匿っていたのは俺で……。家宅捜査の依頼があった時は、その時だけマンション内の別の部屋にいてもらいました。そこは俺の友人の部屋で……あっ、でもそいつが留守中にちょっと使わせてって話して貸してもらっただけで詳しいことは話してなくて、だからそいつは何も知らないんです」
若井は慌てたように息せき切って言葉を紡ぐ。
「分かりました、それでは計画のことについて詳しく教えてもらえませんか?」
「……涼ちゃ、藤澤は何て?」
はた、と何かに気づいたように動きを止めた若井が躊躇いながら尋ねてくる。
「……他の方の証言についてはお伝えできない決まりです」
若井はいかにも落ち着かなさそうに姿勢を直したり指を組み直したりしながら
「藤澤が見つかったなら事件は解決ではないんですか?なんというか、例えば俺や藤澤が偽計申告罪?とかに問われるんだとしても、こんなことまで聞く必要はあるんですか?」
田村は少し迷う素振りを見せてから、口を開いた。
「大森元貴さんが、自分がこの事件の首謀者であると昨晩自首されました」
「は……?」
若井はぴたりと動きを止め、怪訝そうに眉根を顰める。
「こういった証言がでた以上、あなたと藤澤さんが協力して大森さんの罪を隠そうとしている可能性も出たわけです。我々としてはどちらが首謀者なのかを若井さんや藤澤さん、大森さんのお話から判断する必要がある」
大森は、自分が反社組織に依頼して誘拐を頼んだ、動機は別れるのが嫌で考え直してもらうためにちょっと脅しをかけるつもりだったと話しており、細かい計画などはすべて依頼相手に頼んであるので自分は知らないの一点張りだ。藤澤にいたっては、出頭時のその発言以降、まるで閉じた貝のように何も話さずにただぼぅっとしている。こちらの問いかけもまるで聞こえていないかのような素振りだ。これでは埒が明かない。若井から彼らの計画について聞き出し、その整合性を検証することで、判断する必要があった。若井は明らかに戸惑っていた。自分が何を話すべきかを迷っている。あの時とおなじだ。あまり時間を使わせると、余計な隠し事をするかもしれない。田村が少し強い言葉を使ってでも吐かせるべきかと口を開きかけた時、若井の方が先におずおずと口を開いた。
「どこから話したらいいのか、すみません、でも俺……」
付き合って数ヶ月のうちに、元貴の浮気が発覚した。やっとのことで通じ合った想いだと信じて疑わなかった分、そのショックはとても大きいものだった。俺は泣きながら怒って彼をなじった。何故かその時、彼は俺の態度に驚いているようにみえた。わかった、もうしないから。そう言って宥めながら俺を抱きしめる彼が憎くて、それでも愛する気持ちに変わりはなかった。しかしこれを機に彼の浮気はおさまるどころか寧ろその頻度は増えた。しかも、俺が気づくようにわざとやっているようにすらみえた。その度に俺は彼に怒ったり、泣いて縋ったり、とにかく手を尽くして彼の浮気を止めようとした。
でも、ある日俺は気づいてしまったのだ。そうして苦しむ俺の姿を楽しそうに彼が見つめていることに。無表情を装う彼の瞳の奥に悦びが潜んでいることに。俺は絶望した。そして憎んだ。俺を虜にして止まないその瞳を、甘く愛を嘯くその声を、まるで自分しかいないと勘違いさせるように抱きしめるその腕を、俺の愛を蔑ろにするどころか、それを最悪の形で利用していた彼の全てを。
彼はきっと俺のことなど愛してはいなくて、ただ、愛する人間に傷つけられた人間がどのような反応をするかを愉しんでいるに違いなかった。
復讐、の二文字が自分の頭の中に浮かぶのは自然なことのように思えた。でもどうすればいい?彼が、俺から俺の一番大事な存在を奪った──それだけ俺は大森元貴という人間を愛していたのだ。彼の裏切りは、俺から「大森元貴」という存在を奪ったも同然だった──のだから、俺も彼から「一番」を奪ってやればいい。彼の「一番」が何かなんて、最も身近な場所で彼を見てきた自分にならすぐに分かる。彼にとっての「一番」は曲を作り、それによって評価を得ることだ。ならばそれができない環境にしてやればいい。
しかし、これには大きな問題がある。それは関係の無い若井も巻き込んでしまうことだった。それが一番俺を迷わせた。俺はこの復讐を思いついた時、真っ先に若井に連絡を取った。俺は元貴の浮気のこと、そしてそれに対する俺の反応をどうも楽しんでいるらしいということを全て明らかに話した。
「ごめん、あいつの浮気にも、それによって涼ちゃんが苦しんでることも気づいてたのに、俺どうしたらいいか分かんなくて」
若井は今にも泣き出しそうな表情で俺の強ばった指にそっと触れた。
「お願いがあるんだ」
俺は努めて平静を装って言葉を紡いだ。
「でもこれは、若井の人生も巻き込んでしまう。ミセスに関わることだから。だから後悔しない選択をして欲しい、これがだめでも俺は他に手を考えるから」
そう。復讐の手立てはいくらでもある。可笑しいな、あれほど愛した人を貶めるための行為が、こんなにも次々と考えつくなんて。
「それでも俺は、復讐をしなきゃいけない」
その二文字を口にした時、何故か俺はどうしようもなく苦しくなって、今にも泣き出しそうになって、でも口からこぼれたのは笑い声だった。若井がぎょっとして俺を見た。触れていた指は恐怖に震えた。それでも俺は笑うのをやめることができなかった。いま俺はどんな顔をしてるんだろう。泣きそうなのか、憎しみに醜く歪んでいるのか、それともただただ愉快そうなのか。でもどれも本当の俺からは程遠いような気がして、俺はそんな顔を若井に見られたくなくて両手で顔を覆う。若井はそんな俺を落ち着かせるようにそっと抱きしめた。大丈夫、大丈夫だから。泣き出しそうに震えた声だった。
「きっとうまくいく、涼ちゃんの計画を教えて」
引っかくような笑い声は、いつの間にか嗚咽に変わっていた。
薄暗い取調室の机に差し出された写真に、自分は見覚えがあった。それは間違いなく、3年前のあの日、自分が彼に想いを伝えた場所に他ならなかった。彼の好意にはずっと気づいていて、でもその重さには自分との間できっと差異があるだろうからと二の足を踏んでいたが、この日ようやく1歩を踏み出したのだった。ぼろぼろと嬉し涙をこぼす彼を見て、絶対に大事にするんだと心に誓ったはずだった。そしてもう一枚、横に並べられた写真を見て、自分は全てを悟った。そうか、これは、今までと同じ「家出」などではない。君はもう、俺のもとに帰ってくるつもりなどないのだ。でもそれは、よくよく考えたら当たり前のことだろう。君を壊した俺に対する復讐なのだとしたら、ちょっと優しすぎるくらいかもしれない。最後に俺が君にしてあげられることはもうこれくらいなものだろう。
息を吐く。
そして舞台の幕が上がる。
計画は簡単に言えば、俺が失踪することでミセスとしての活動ができなくなるというものだった。もちろん問題は山積みだった。俺と若井は知恵を出し合って、その問題ひとつひとつに向き合った。
俺の失踪は世間的にも大きな話題になるし、警察も「一般人の行方不明」よりは力を入れて動くかもしれないという懸念があった。執拗に行方を探されたら、逃げ切れる自信はなかった。そのために、ある程度のシナリオを彼らに与えて捜査の方向をある程度導く必要があった。それは「この失踪は、藤澤涼架本人の意思によるものであり、第三者による事件性が薄い」というシナリオ。
そのシナリオのために俺は予め根拠となるふたつのストーリーを用意しておいた。ひとつは「藤澤にはもともと行方をくらませることが度々あった」ということと、もうひとつは「藤澤は恋人である大森から暴力を受けており、彼から逃げ出すためという姿を消すもっともな理由が存在している」というもの。
前者はまず元貴が警察へ通報するのを遅らせる狙いもあった。街中に設置されている防犯カメラは長いもので1週間、多くは3日ほどで記録が上書きされていくシステムだと聞いたことがある。2、3日くらい姿を消すことがこれまでにもあったとなれば、戻ってくるかもしれないという考えから通報が遅れ、その間に俺の映っているカメラの記録は消えてくれる。かといって俺がマンションを出た、という記録がなければ元貴に疑いがかかってしまうだろうから、エントランスの防犯カメラの記録──こちらは1週間で消えることを確認済みだ──が消える前に捜査の手が入ってほしい。予め繰り返しておく「失踪」は最大で3日のものとして、仕事になるべく支障が出ない程度に繰り返しておいた。この目論見は上手くいき、通報は3日後のこととなった。
後者は、アーティストとしての大森元貴の活動可能性を徹底的に潰すためでもあった。俺が姿を消したとて、個人活動でつなぐことは出来る。それでは復讐の意味がない。そこで、直接でなくても間接的に俺が姿を消す理由を作った当事者らしいという悪評を立てることにした。そうすれば彼のアーティストとしての生命線は失われる。特に知名度の高い俺たちにとって、こうした話は真偽に関わらず面白可笑しく騒ぎ立てられるものだし、ちょっとだけ火種を用意しておいてやればあとは簡単に、火のなかったところですら煙が立つだろう。そこで俺は自分でつけた痣などの傷跡を、偶然を装って周囲の人間に目撃させた。その傷はどうしたのかと問われることも勿論あり、その場合は言いにくそうにしながら「転んじゃって」とだけ言ってあとは口を噤む。これだけで「どうも恋人である大森から暴力を受けているらしい」と噂がたっていくのだから、人は恐ろしいものである。
かくして準備は整った。俺は「失踪」の当日、元貴には走ってくるからと言って家を出た。この日は若井には22時まで仕事のスケジュールがあったので、2人のアリバイが保証されている絶好の機会だった。俺は特に防犯カメラや人通りの少ないエリアに身を潜め、若井の仕事が終わるのを待ち、予め彼に渡しておいた着替え用の服を持ってきてもらい合流する。Tシャツにジーンズ、キャップというシンプルだが、ランニングウェアとは全く違う服なので、仮に防犯カメラに映像が残っていたとしても俺だとは気づかれないだろう。公園のトイレで着替えてから若井のマンションに向かい、ことが落ち着くまで滞在する。もし、若井のマンションの防犯カメラの記録を調べられたらという懸念はあったが、捜査が当初第三者による誘拐という線が強かったらしく、若井は一度聴取を受けたのと形だけの家宅捜査を受けただけでそれからしばらくの間、何のアクションもなかった。若井へのマークが無いことをしっかり確信してから、彼に頼んで俺のランニングシューズを指定した公園に置いてきてもらった。俺のランニングコースにも含まれている公園で、元貴も時々行く場所だから、警察と元貴のどちらが先に見つけるかは賭けだった。警察に先に見つかれば、少々面倒なことになるかもしれないが、元貴に真意が伝わればそれで問題なかった。
ランニングシューズは誕生日に元貴が俺にくれたもので、公園は俺たちの想いが通じあった場所だったのだ。それは俺たちにしか分からないことだった。だから、あの公園にランニングシューズが置き去りにされていたことに気づいたら、元貴はこれが第三者によるものなのではなく、俺による「復讐」だと気づくに違いないと思った。もう彼のところに戻るつもりはないという意思表示とともに。それがどう彼に響くかは分からなかったが、自分を好いていると思っていた相手によって自分が一番大切にしているもの──曲をかくことによって評価を得られる機会──を奪われる絶望を少しでも味わえばいいと思った。
あとは事件が風化するのを待てばいい。ところが、予想外のことが起こった。若井のところに届いた連絡。彼が自殺未遂を図ったという内容だった。
「彼に死んでほしい訳じゃない」
何故そんなことになったかは分からないが、震える手で、どうしよう、と若井に縋り付くと、彼は元貴が連日取調べを受けている事実を教えてくれた。今回の件はそのストレスのせいではないか、とも。正直警察がここまで元貴を疑うのは予想外だった。元貴にも若井にもアリバイはあるし、大丈夫だろうと高を括っていた。ところが、捜査は思わぬほうに進んだ。というよりも、「俺が元貴から逃げ出すために自分から姿を消した」という線が強くなるように作った「暴力を受けていた」というシナリオが、何故か全く逆の方向に作用したのだろう。疑いは元貴に絞られることになってしまった。
「俺が行って本当のことを話すしかない」
ぽつりと呟くと、若井がぐっと俺の服の裾を引っ張った。行くなということだろうか。でも、どうせもう、彼は曲がかけないのだから。俺の復讐は完成しているのだ。
「いい?若井は何も知らなかった、俺が隠れていたのも若井の家じゃなくて別の場所。絶対自分が関わってたなんて言わないでよね」
「何言ってんの!」
若井がキッと俺を睨みつける。
「俺だって共犯者だ。あの日涼ちゃんが俺を巻き込んだんだ、今更独りになんかさせない」
俺は思わず苦笑して、彼の肩を宥めるように叩きながら首を振る。
「もう必要以上に協力してもらった、その事実だけで充分だよ。若井まで罪に問われる必要なんてない。今後の個人活動だって絶望的になっちゃう。今ならミセスとしてはもう無理でも、若井は個人でギターを……やりたいことを続けられる。お願いだから、俺ひとりで行かせて」
若井は俯いたままで結局頷くことはなかった。俺は黙ったままの彼を置いて、部屋を出た。もうすぐで11月となる夜の空気は思ったよりも冷たい。「失踪」時に家から持ち出したTシャツでは肌寒かったせいか、俺の身体は小さな震えが止まらなかった。
※※※
次回、最終回になります
コメント
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えっ!!二人はこのあとどうなるの~~はやく続きが読みたい😭 それぞれの思いが交錯してるのがすごく緊張感をもってえがかれているからずっとドキドキしてる
次が楽しみ!🫣💕ドキドキする話しで楽しい