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実は、彼との付き合いはあなたよりも長いんです、と言ったら、鷹取有香子は、あの愛くるしい瞳を瞬かせて、驚きを見せるだろうか。
何故だろう。仕掛けているのは自分たちのほうなのに。知られたがっている自分がいる。
そもそも鷹取有香子は、自分がなにをしでかしたのかを分かってすらいないのだ。
ほんの、ささいな一言だったのかもしれない。
しかし、思い込みに満ちたその発言が、ひどく、《《彼女》》を傷つけた。
ふたりとも、ママにそっくりだね――いまだに彼女は、有香子の声音、表情、それを聞かされた川辺の風景や空気までまざまざと思い出されるのだ。きっと当の本人は忘れ去っていることだろう。自分が失言をしたことなんて。
加害者の側は常に欺瞞のなかにいる。ひとを傷つけることにおいて、あまりにも誠実で無自覚。知らない間に自分が他者をどれほど痛めつけているかを知らないし、知ろうともしない。
会社で見かける鷹取有香子は、平穏で普通の兼業主婦に見えるが。《《あんなこと》》を言うなんて。やっぱりなにも分かっていない。
そもそも、知宏と知り合ったのは彼女が先だったのだ。月のものが遅れた程度で妊娠したかもしれないと騒いで彼女の大切な彼氏を奪った。あの女は自分が加害者だということを知らないのかもしれない……大学時代の有香子の仲間から話を聞くにつれ、彼女のなかで疑念が更に深まった。
略奪女が、正妻の顔をしている……奪ったのはあなたのほうなのに! 本当は、あのキャンプのときに怒鳴りつけてやりたかった。
けども、有香子の鼻をあかせたという思いはある。有香子の手入れした宅に入って目的を達成出来たのだから。あの女の大切に守る空間を穢してやるのが彼女の目的だった。知宏との行為はオマケみたいなものだ。
彼女は、昔からサッカーが大好きで。東京生まれ東京育ちの彼女は、Jリーグの発足当初からサッカーを見に行ったし、自分が女の子であるがゆえにサッカーが出来なかったことが悲しかった。
知宏とは、サッカー観戦をするうちに知り合った。観戦仲間と競技場の近くの、サポーター行きつけの飲み屋で言葉を交わした。敵チームをボロクソに言う知宏の姿がある意味気持ちがよかった。
セフレ。
という関係だったのかもしれない。
どちらかが誘ったというわけでもなく、なんとなく。帰りたくない日に一緒にホテルに入った、それが始まりだった。
以来、時々、サッカー観戦後仲間たちと飲んだ帰りに一緒に寝る、そんな関係が始まった。
サッカーのこととなるとひとが変わり、獰猛な獣と化す知宏の相手をするのは楽しかったし、いい関係を続けられたと思う。
どちらかに彼氏彼女が出来ても責めないし割り切った関係。不必要に干渉しないし楽しめる、家族であり恋人のようなもの。その関係は楽しかった。若さゆえの過ちかもしれない。
――が。
知宏は、結局、有香子を選んだ。
それを聞かされたのは、よりによって、応援するチームが、三点のビハインドを背負いながらもホームで5-3で大勝した試合の後だった。
言うにしてもタイミングを考えろよ。
……といまでも彼女は毒づきたくなる。
彼曰く、有香子に対する気持ちは、彼女への想いとは別物で。いままでにない、平和な気持ちになれるんだ……笑顔のある、あったかい家庭を築きたい……そんな熱弁を垂れる知宏は、なんだか知らないひとのようだった。へえ、とか、はあ、とか、気のない返事をしたのを彼女は記憶している。
男が望むのは結局安定と平和なのか。散々一緒にサッカー観戦で盛り上がった仲間なのに、随分とつまらないことを言うものだなと。悲しむよりも呆れの気持ちのほうが強かった。
かくして彼女は、知宏と別れた。
知宏とはまったく違うタイプの、温和で、激情など絶対に見せない平和な男と結婚し、ありきたりだが大切な幸せを手に入れた――彼女はそう思っていたのだ。
あの日が来るまでは。
* * *
夫と妹の関係を知ったのは、妹が愛する二人の子を残して事故死したときであった。
なんでも、逢瀬の途中だったらしい。車はかなりのスピードを出し、妹の最期の顔を彼女は拝めなかった。
憎しみだけが残された。
かつ、残された幼い子どもふたりをどうするのか? 両親はもう、子育てをとっくに卒業しているし、選択肢は他になかった。
彼女は一度子どもを死産で亡くしている。恨みがましい気持ちと、でも、子を授かれて嬉しいという気持ちが入り混じった状態で、新たなる子育てが開始した。
彼女の夫はもう、――なにも言わなかった。
自分のせいで妻の妹を亡くした、その罪悪に駆られる一方で、しかしながらその罪悪感ゆえに家庭から目を背けた。
ゆえに、ワンオペ育児であった。
会社が、育児と仕事の両立に理解のある会社で助けられた。子どものことで休むことも多々。それまで彼女は、子どものことで頻繁に会社を休む兼業主婦にどちらかといえば白い眼を向けていたのだが……子育てをしてみて初めて分かった。
子育ては、出口のない、迷路のようなものなのだと。
* * *
鷹取有香子の発言に他意はなかったのだろう。悪意もきっと。
しかし――。
自分が奪った側だということも知らずに呑気に過ごし、挙句の果てには彼女の勤務する会社に入社した。
神様はどんないたずらをしてくれているのだ、と嘆かわしくもなる。――が。
その前に、知宏と彼女は繋がっていた。ある夜、サッカーを見に行ったときに再会した。
子どもは夫に任せ、たまには、くさくさした気分を晴らそうとビールを頼むと、隣に知宏がいた。
彼は何故か、驚いた顔をして、かつ、狼狽えたように見えた。――久しぶりだな。そんな常套句が彼の口からこぼれた。
一度くっついた同士がまた結ばれるのは簡単だった。サッカーを愛する者同士の絆が彼らの想いを強くする。
どうせ。夫も自分を裏切ったのだから――いまだに亡き妹と夫のことを許せない気持ちが彼女のなかに残っていた。
その恨みは、やがて、有香子への悪意と言うかたちで、結実する。
* * *
よそのおうちでハロウィンパーティーに呼ばれるなんて初めての体験だった。
知宏は、彼女と顔を合わせても、素知らぬ他人のふりを貫いた。――嘘つきめが。と内心で彼女は知宏を罵った。
本当のことを言え。自分は、有香子と彼女を二股にかけていた、と。
しかし、彼女は、自分の正体が有香子にバレたことを知らずにいる。その余裕が。優越が。自身を追い詰めていくことを知らずに。彼女はパーティの席で酒を飲み、笑っていた。
*