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沙羅は、2階にある子供部屋のドアをそっと開けた。就寝時刻を過ぎているというのに部屋の電気は明るいままだ。
部屋の主である美幸はベッドの上でゴロゴロしながら、スマートフォンをポチポチと操作している。
「もう、寝る時間よ。明日、なっちゃんに会いに行くんでしょう」
「うん、いま、なっちゃんと会うの楽しみだねって、ラインしてたの」
「でも、そろそろ寝ないと、寝不足で車酔いするわよ」
「うん、わかった」
少し不満げに口を尖らせた美幸は、それでも素直に机の上の充電器にスマートフォンを置いた。肌掛け布団をかぶると、何か言いたげな瞳を向ける。
「おやすみ、美幸。電気消すわよ」
「はぁい、おやすみなさい」
肌掛け布団から顔を覗かせた美幸から小さな声が聞こえた。
「お母さん、早くお父さんと仲直りしてね」
不意打ちのような言葉に沙羅は息を飲み込む。泣きたい気持ちを抑え、無理に笑顔を作る口元が震えた。
両親の不仲を心配した美幸が、朝から言えずにいた言葉を、沙羅は否定する事など出来ない。やっとの思いで、震えた唇を動かす。
「……そうね。おやすみ」
カチッと照明を消して、ドアを閉じた。
沙羅は、後ろ手にドアノブを握ったまま、歯を食いしばり涙を堪える。
今は、泣いている場合じゃない。
心の中で自分自身を叱咤して、顔を上げた。
リビングには、テレビの音が流れている。
沙羅は、ぼんやりとソファーでテレビを眺めていた。
「美幸は、寝たのか?」
「……ええ」
定時で帰宅すると言っていた政志は、今の時間になってやっと帰って来た。
政志の疲れ切った様子は、片桐との別れ話が、進まなかったのだろうと推測できる。
そんな政志から避けるように、沙羅はダイニングの椅子に移動し、思いつめた表情で自分の手元を見つめていた。
夫の不倫。
それは、信じていた政志の裏切りであり、到底許せるわけもない。
しかし、一人娘の美幸の将来を思うと自分の生活力では満足な教育も難しいだろう。
沙羅は心の中で、妻としての思いと、母親として思い、その隔たりを埋める答えを探しあぐねる。
ふたりの間に沈黙の時間が流れ、普段気にならない壁掛け時計の音が、カチカチとやけに響く。
沈黙に耐えかねた政志が、紗羅の座るダイニングテーブルの向かい側に立ち、深く頭を下げた。
「沙羅……俺が悪かった。心から反省している」
政志としては、誠心誠意の謝罪つもり。だが、沙羅の口調は、素っ気ないものだった。
「約束ひとつ守れない人に謝られても、その場しのぎで取り繕っているようにしか思えないの」
「すまない。どうしたら……」
続きの言葉を言うのをためらい、肩を落とす政志へ、沙羅は冷ややかな視線を送り、おもむろに立ち上がる。
そして、リビングの端に置かれたチェストの引き出しから、A4サイズの茶封筒を取り出した。
「政志さん、座ってください」
「ああ……」
促されるまま、政志は緊張した面持ちで、テーブルを挟み沙羅の向かい側に座る。
政志の不安気な視線は、沙羅の前に置かれた茶封筒に注がれていた。
沙羅は、細く息を吐き出してから、ゆっくりと話し出す。
「私……毎日、頑張って、家族のために|形振り《なりふり》構わず家事をして……それがこんな形で裏切られるなんて、凄いショックでした。何よりも、政志さんの中で、私の扱いがあまりにも軽い物だったと知ったのが悲しかった」
「俺の軽率な行いで、嫌な思いをさせて、本当に悪かったと思ってる。でも、けして沙羅を軽く扱っては居ない。感謝もしているし、誰よりも大切に思っている」
「ウソつかないで、誰よりも大切に思っていたら、私を裏切ったりしないはずよ。それに、私には贈った事も無い高価なプレゼントを彼女には贈っていたじゃない」
その指摘に政志は、視線を泳がせた。
「そ、それは……」
「女として、魅力が失くなった私より、若くて可愛い彼女に価値を感じたんでしょう」
沙羅は、テーブルの上に置いた手をギュッと握り込み、今にも泣き出しそうに瞳を潤ませながら微笑む。
悲しみに満ちた微笑みを、政志は直視出来ずにいた。
「ち、違う。沙羅をそんな風に思ったわけじゃない。俺は、ただ……若い|娘《コ》に言い寄られて、舞い上がってしまっただけなんだ」
「それで、バレなきゃ不倫してもいいって、思ったんだ。……それとも、バレても泣きつく実家が無い女なんて、言い包めればどうとでもなるって、思った?」
「そんな事は、思ってない!」
「じゃあ、何で不倫したのよ! 結局、政志は私の事を甘く見ているから、平気だと思って不倫したんでしょう」
叫ぶように言葉を吐き出すと、堪えきれずに涙が溢れた。
沙羅は、頬を濡らす涙を手のひらで拭い、唇を一文字に引き結ぶ。
そして、気持ちを落ち着かせるように、肩で大きく息をつくと、茶封筒に手をかけた。
その中から出された一枚の紙は、白地に緑色の縁取りがされている。
政志が恐れていた「離婚届」だ。
「沙羅……」
政志の勤めている住宅メーカーのHana Homeは主に、ファミリー層を販売のターゲットにしている。
『快適な暮らし 上質な暮らし 安心の我が家』のコピーでテレビコマーシャルも放送中だ。
安心の我が家をうたい文句にしているHana Homeの社員が、社内不倫で離婚ともなれば、風紀を乱したとして大きく評価を下げる事となる。
そうなれば、エリートコースを順調に上がってきた政志だが、これ以上の出世は難しくなるだろう。
それに、若く我が儘なところがある片桐は、遊びで付き合うならいいが、結婚となれば、家事にしても育児にしても不安があり過ぎる。
沙羅と別れてまで、結婚したい相手では無いのだ。
どちらにしても、沙羅と別れるのは政志にとってデメリットが多すぎる。
「ごめん、身勝手なのは重々承知している。でも、俺は離婚したくない。沙羅や美幸と離れたくないんだ」
焦ったように口にする政志に、沙羅は悔しそうに顔を歪ませた。
「そう思うなら、最初から不倫なんてしなければ良かったのよ。例え、片桐さんに誘惑されたとしても、政志さんが、それに乗った時点でこうなる事を予測できなかったのは、浅はかだったんじゃない?」
「それは……」
政志は言い淀む。
『遊びでいいの……好きなんです。迷惑をかけないからお願い』
始めて誘われたときに片桐から言われた、甘い悪魔のささやき。
今、考えれば、都合の良い言葉には毒が含まれているとわかる。
その毒を疑うことなく口にして、酔いしれた政志は、家庭と仕事の両方を失うかも知れないほどの痛手を負うことを、その時は想像もしていなかった。
言葉を無くし、うつむく政志を、沙羅は真っ直ぐに見据えた。
「これは、けじめをつける意味を込めて書いてもらいたいの。政志さんが有責なのは間違いないし、拒否するなら、調停でも裁判でもするから」
テーブルの上に離婚届を置き、政志へ差し出した。気丈に振舞う沙羅だったが、その手は小刻みに震えていた。
死を分かつまでと誓ったばずの結婚。その終焉をこんな形で向かえるのだ。
強気な姿勢を見せても、平静でなど居られない。
心の中は、悲しみに埋め尽くされていた。
裁判ともなれば、不貞の証拠が記録にも残り、一生の汚点になる。調停や裁判も辞さないという沙羅からの強い意志表示に、「もう、離婚届に名前を入れるしかないのだろうか」と、政志は大きくうなだれた。
「やはり、許してもらえないのか……。でも、俺と別れたら、頼れる人も無くて、この先どうやって生きていくんだ。それに、美幸の事はどうするんだ」
「もちろん、美幸の事が一番大事よ。でも、そのために不倫を無かった事にはするつもりはないの。だから、けじめとして籍は抜く。美幸の親権も譲らないわ」
沙羅は、覚悟を決めたようにスッと背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んだ。
「ただ、夫婦としての籍は抜くけど、旧姓には戻さないで、このまま佐藤姓を名乗るつもりよ」
両親が鬼籍に入っている沙羅の元の戸籍は除籍になっている。どのみち新たに戸籍を作らねばならない。
「えっ? どういう意味だ」
「わかりやすく言えば、籍は抜くから、離婚。だけど、事実婚に近い状態で暮らすの。美幸のためにも表面的には半年間は今まで通りで……中学受験には両親揃っての面接だし、美幸の精神的安定にも別居は難しいでしょう? 中学受験が終わったら、その時の状況で再構築か、別居か、また話し合って決めたいと思っているわ」
離婚届けに記入すれば、それでお互いの道が分かれてしまうものだと思っていた政志だったが、まだ、再構築への道が残されている事に一縷の望みを見出す。
「沙羅……許してくれるのか?」
「勘違いしないで政志さんのことを許したわけじゃないのよ。もちろん、離婚するんだから慰謝料や財産分与の請求するわ。でも、美幸の事を考えたら、この選択が一番のような気がして……」
そう、本意では離婚して、政志と離れて暮らしたい。けれど、一人娘の美幸の事を考えれれば、両親が揃っているのベスト。特に美幸の目指している学校は受験時に両親揃っての親子面接がある学校だ。
もちろん、美幸の事を思っての決断だが、そればかりじゃない。
半年と期間を設けたのは、 頼れる身内が居ない沙羅の社会に出て生きて行くために、準備とリハビリ期間にあてるつもりだ。
誰かに養われるのではなく、自分で自分を養い、自立の道を探っていくために必要な時間。
沙羅や美幸と離れずに済むと聞いて、政志は安堵の息を吐き出した。
「わかった。今回の事が挽回できるように出来る限り努力する。もう一度、チャンスをくれてありがとう」
「……チャンスかどうかは、わからないわ。表面上は今までと変わらないけれど、籍を抜くって事はお互い独身に戻るのよ。美幸の親であるけれど、私たちの関係は、ただの同居人。だから、私も仕事を探して、少ないけれど生活費を入れたいと思っている。そのかわり、これまでと同じように家事は出来ないから、政志さんも自分の事は自分でして欲しいの」
「無理に仕事をしなくても、今まで通りに俺が食わして行くから……」
「それじゃ、籍を抜いたのにおかしいわ。それに私も働きたいのよ」
「そうか……。でも、体がきついようなら俺が支えるから無理はするな」
自分を心配する政志の真剣な声に、沙羅は複雑な思いに駆られる。
片桐の事がなければ、政志は優しく良い夫だった……。
その優しさにつけ込まれたのかも知れない。
「ありがとう、気持ちだけ受け取っておくわ。あとね、離婚届を出すにあたって書いてもらいたいものがあるの」
沙羅は、離婚届とは別の用紙を茶封筒から取り出す。
それは、「離婚の際に称していた氏を称する届出」と「婚姻届不受理申出」だ。
「離婚の際に称していた氏を称する届出」は沙羅が離婚した後でも、旧姓に戻さずに、佐藤姓を名乗り続けるための用紙。
「婚姻届不受理申出」は、本人の意思とは別に勝手に婚姻届を提出されないための用紙だ。
馴染みのない用紙を目の前にして、政志は戸惑いの表情を浮かべた。
「これは?」
「籍を抜く以上、政志さんはフリーになるでしょう。婚姻届不受理申出は、片桐さんが勝手に婚姻届を出したりしないようにするための自衛よ。政志さんが離婚したと知ったら……あの片桐さんならやりそうでしょう」
「ああ、そうかも……」
「一旦、婚姻届けを受理されたら、裁判になったり、離婚手続きになったり面倒事になるから。まあ、政志さんが片桐さんと結婚したいなら出さなくてもいいんだけど」
「いや、片桐と再婚する気はない。これは書かせてもらうよ」
女のカンとでもいうのだろうか、片桐の言葉をすべて信じる事が出来ずにいる。だから、離婚届を取りに行く前に興信所に立ち寄り、片桐の動向を調べさせている最中だ。
優しく人が良いだけの善人は、時として、悪意を持つ人にいいように使われてしまう。世の中を渡って行くには、あざとく|強《したた》かでなければ、やっていけない。
この離婚によって、片桐を喜ばせるような真似はしない。
実は離婚に当たって、他にも付けた条件がある。
政志が、片桐との子供の認知をする際、事前に相談する事。
これは、美幸の遺産相続にも関わる問題なのだから、絶対条件だ。
それと、政志の実家との付き合いは、この先しないという事。
籍を抜いた以上、嫁ではなくなった。わざわざ嫌な思いをしに政志の実家へ行く事はないのだ。
三親等内の親族には扶養する義務があるが、血縁関係のない嫁はその条件からはずれる。配偶者が親の面倒をみる場合には 夫婦扶助の精神で協力を求められることはある。が、あくまでも協力であって義務ではない。
そもそも、親孝行をしたければ、嫁を使って親孝行をするのではなく。自らが親孝行をすればいい。
沙羅の出した条件を有責の政志は受け入れるしかない。
小さくうなずき、離婚届に名前を書き入れる。
判子を付くとすべてが終わり、政志は後悔で潤む瞳を誤魔化すように瞼を閉じた。
そして、ゆっくり瞼を開くと、テーブルの上を滑らせ、沙羅へと用紙を戻す。
「俺が悪かった。もう遅いかも知れないが、少しでも信用を取り戻せるように努力する」
用紙を受けとり、疲れたように息を吐き出した沙羅は、困った顔で微笑んだ。
「……私は、美幸の母親として、政志さんが良い父親で居てくれればいい。それ以上は何も望まないわ。これまで13年間は幸せでした。ありがとうございました」
そう言って、これまでの婚姻関係に区切りをつけるべく深く頭を下げた。