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午前七時、ガシャガシャと荒いクリームを泡立てる音。日和はパティシエとして勤めている【シュガーベール】で店の開店準備をしていた。
(何が淫魔よ! 何が婚約者よ! あのヤリチンめ!)
昨日の出来事を考えれば考えるほどイラついて、考えれば考えるほど熱く身体が疼く。
――真田洸夜。
あの後すぐに洸夜について調べた。調べたと言ってもハピフルのサイトを見ただけだが、かなりやり手の社長らしい。五年前に洸夜が社長に就任してから業績は鰻登り、ハピフルに登録している会員数も結婚相談所トップレベル。容姿端麗、周囲からの信頼も厚く、なんでそんな完璧な人が自分の事を好きと言っているのか理解できない。
(なんであいつとのエッチはあんなに気持ちいいのよ……私不感症だったはずなのに……本当に淫魔なのかな……淫魔なんて本当に存在するの?)
クリームを泡立てる手は激しさを増す。
「おいおい、そんな乱暴に泡立てたらクリームが泣くぞ~」
「あ、店長すいません。つい考え事してたら」
シュガーベールの店長、西田健(にしだ たける)日和より二歳年上の三十二歳独身。日和の通っていた製菓学校での先輩だ。健にスカウトされ日和はシュガーベールにパティシエとして就職した。
「なんだ~この前男に振られた事引きずってんのか~?」
「あ、そう言えば私って振られたんだった」
洸夜との出会いがインパクトありすぎてすっかり振られた事を忘れていた。
「なんだそりゃ、本当お前の男への関心の無さ、そりゃ男も逃げるわな~」
「うぅ、ぐうの音も出ないっ!」
「ははっ、まぁさっさと次の恋でも見つけな~。俺はタルト生地焼くからお前はスポンジ宜しくな」
「もう焼いてます!」
「はい、流石です~、んじゃ開店に向けて作るぞ~」
香ばしいケーキの焼き上がる匂いが厨房に充満する。クリームの甘い匂いや色鮮やかなフルーツをカットしフレッシュな酸味のある匂いも香ばしい匂いの中に混ざった。
焼き上がったスポンジは明日用に寝かし、昨日健が作ってくれていたスポンジを三枚にカットする。クリームを塗り一センチほどにスライスした苺を満遍なくのせもう一度クリームで蓋をする。ケーキホール全体にクリームを塗りナッペするのだが日和はこの工程が一番ケーキ作りの中で大好きだ。真っ白な一つも足跡のない雪景色のように綺麗なナッペが出来た時はケーキを焼くようになって何年も経った今でも変わらず嬉しくてニヤけてしまう。
ショートケーキ、チョコケーキ、チーズケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、フルーツタルト、まだまだ沢山の種類のケーキをガラスのショーケースに並べた。艶々輝いていてまるで宝石が並んでいるように綺麗でうっとりしてしまう。
「うんっ、今日も素敵な子達が出来上がり!」
「俺の作った苺のタルトなんてツヤッツヤ~」
十時の開店時間まであと十五分。
「はいはい、お兄ちゃんのタルトは艶々なのは分かったからさっさと洗い物してください」
店の外の掃除から西田綾乃(にしだ あやの)が戻ってきた。渋々と健は「はーい」と厨房へ戻っていった。健と綾乃は兄妹、つまり西田家のケーキ屋に日和が一緒に働いている感じだ。
綾乃はパティシエではないので売り場専門、レジ打ちから接客まで全てをこなしてくれている。
「じゃあ私も後片付けしてくるから綾乃、宜しくお願いします」
「こちらこそ、今日も宜しくお願いします」
親しき仲にも礼儀あり、お互いに深々とお辞儀をして持ち場に戻る。綾乃とは高校の時からの友人だ。
使った道具をしっかり油分が取れるよう洗い乾燥させる。道具がなければお菓子は作れない。道具を大事にする事も美味しいお菓子を作る為に大切な事だ。日和は毎日丁寧に道具を洗う。
「ひひひひひひひよりっ!!!」
「な、何!?」
綾乃が勢いよく厨房に顔を出し興奮状態で日和を呼ぶ。
「イケメン! イケメンが日和の事を呼んでる! 何あの色気ムンムンのイケメンは!」
はぁ? イケメンって誰の事? まさか元彼の太郎? いや、そしたら綾乃も見たことある失礼だがそこまでイケメンでは無かった。
(綾乃があんなにテンション上がってるってことはかなりイケメン? でもそんなイケメンの知り合いなんていないしなぁ)
うーん誰だ? と数少ない男の知り合いを頭の中でぐるぐる思い出すが綾乃が興奮する程のイケメンが出てこない。
「お待たせ致しまし……えぇ!?」
ビシッとまとめ上げられたブラウンの髪、ネイビーのスリーピーススーツをサラリと着こなした長身の男。吸い込まれそうな髪色と同じブラウンの瞳。
「よお、来てやったぞ」
「はあ!?」
フンッと得意げにシュガーベールに現れた洸夜。来てやったぞって何!? この男もしかしてストーカーにでもなっちゃったの?
「はあ? って、婚約者の店に来たって良いだろう。それに俺は今日仕事の話をしに来たんだから」
「え、婚約者って日和っ、いつの間にこんなイケメンと婚約してたのよ!」
婚約者と言うワードに食いつく綾乃。自分が聞きたいくらいだ。婚約者だなんてとんでもない。こいつは変態ヤリチン野郎だ。
「婚約なんてしていないし、こんな人知りません」
「知らないってあんなに俺たち愛し合って、昨日だって――んんっ」
冷たく言い放ちあしらおうとしたが洸夜の一言で日和は急いで洸夜の口を塞ぎ、睨みつけた。
「あんた、余計な事言ったら許さないわよ」
目元を緩ませてうんうんと頷くので口から手を離す。スッと近づいてきた洸夜の口から日和にしか聞こえない声量で「俺たちだけの秘密だな」と囁いた。
洸夜の生暖かい吐息が耳に当たりゾクリと背筋が震え、昨日の事がフラッシュバックし、下腹部がキュンとした、誰にも気付かれないよう日和は冷静を装う。
「じゃあ、店長を呼んでもらえるか。俺はビジネスの話を今日はしに来たんだ。日和の作ったここのケーキをこれからうちの会社で使いたいと考えてるから」
「結婚相談所で?」
あぁ、でも確かに昨日行った時ケーキを出してくれるって言ってた……あ、ケーキ、食べてない……
「あぁ、もし受けてくれるならケーキバイキングパーティーなどを開いて会員同士の出会いの場にしたいと思ってさ、お互いにいい話だろう?」
まぁそれは確かに良い話だ。実際のところケーキ屋はケーキをたくさん売ってなんぼな所がある。経営が厳しいとかではないが、シュガーベールのケーキを宣伝する良い機会にもなるし、多分この話を健にしたら秒速OKが出そうだ。
「そうですか。じゃあ今呼んできますね」
日和は厨房にいた健を呼び、洸夜と健はスタッフルームへと消えていった。
(はぁ、なんなのよ。もう関わりたくないのに)
どっと疲れが出て長い溜息が絶え間なく溢れ出す。
「ひーよーりー」
ワクワク、何あのイケメン、どんな関係? もう綾乃の聞きたい事が顔にしっかりと書いてある。
「昨日勢いで結婚相談所に行ったんだけどそこの社長みたい」
キャーと女子高校生のような黄色い声で「御曹司じゃん、玉の輿じゃん」なんて一人テンション上がっている。
御曹司だろうと、玉の輿だろうと変態ヤリチン野郎は無理。断固拒否!
スタッフルームから聞こえてくる声に耳を立てる。
「では、さっそく宜しくお願いしますね」
「もちろん。全力を尽くさせてもらいますよ~」
やっぱりこの話は成立すると思った。
満足げな洸夜と、嬉しそうな健がスタッフルームから戻ってくると「契約成立だ」と洸夜が日和に向かって嬉しそうな優しい笑顔を向けた。
ドキンと心臓が高鳴る。
(な、なによ。嬉しそうな顔しちゃって)
不意に見せられた笑顔に胸がドキンとしてしまったのは、意地悪な笑顔ではなく、優しい笑顔だったから、ただそれだけだ。そう日和は自分に言い聞かせた。
「日和の作るケーキはどれも最高に美味しいからな。きっとこの企画は成功すると思う」
「美味しいって、貴方は私の作ったケーキ食べた事ないですよね?」
日和はキッと洸夜を睨みつけた。その場凌ぎのお世辞ならいらない。毎日丹精込めて作っているケーキだ。食べていないのに美味しいと言われるのは嫌な気持ちになる。
「あるに決まってるだろう。秘書に何度も買いにこさせていたからな。日和の作ったザッハトルテが俺の一番のお気に入りだ」
ふふん、と自慢げに話す洸夜。ザッハトルテは日和がフランスに留学した時に研究して、練習して、自分の思い描くザッハトルテが出来た日和の自信作だ。そのザッハトルテを一番のお気に入りと言われて素直に嬉しいと思えた。思たけど……
「秘書って……何で自分で買いにこなかったのよ」
照れ隠しに洸夜に強くあったってしまう。
「なんでって……好きな人に急に会うとか、て、照れるだろ……」
「は?」
この男何言ってんの? 照れるって散々あんな事しておいてどの口が言ってんの?
「じゃあ急だけど来週のパーティーのケーキ宜しく頼むな。仕事頑張れよ」
洸夜は日和の頭をポンポンと軽く叩き嵐のように去っていった。
(な、なんなのよ……)
「イケメンの頭ポンポンは第三者から見ても胸キュンするわ」
「綾乃……」
第三者じゃない、好きな人と言われ頭をポンポンされた当事者の日和の心臓は何故かバクバクと早く動き、身体が燃えるように熱かった。