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第3話 聞こえること、見えていること
それから数日、事務職員の周囲には、頼んでもいない話が少しずつ積もっていった。
「水域由来のあの青年、また彼を探してたよ」
最初は、同僚が昼休みにこぼしただけだった。
「担当の日だったんじゃない?」
「違うみたい。廊下で会ったから、今日いるかって聞かれた」
同僚は深い意味もなく笑い、食事へ戻った。
事務職員も、そう、とだけ答えた。
次は、書類を届けに来た準備区域の職員だった。
「あの青年、衣服訓練がずいぶん進んだよ。あの介助職員の時は特に機嫌がよくてね」
「彼、教え方が上手だから」
「本人も、彼の介助が好きだって言ってた」
よかった、と笑うべき場面だった。
事務職員はきちんと笑った。たぶん、いつもと同じように。
さらに次の日には、窓口へ来たハイエナ由来の霊獣が、仲間同士の会話でその名前を口にした。
「今日も一緒にいたぞ」
「誰が」
「あの水くさいのと、介助の兄ちゃん」
事務職員が顔を上げると、話していた二人は気まずそうに口を閉じた。
その沈黙の方が、聞こえた言葉より長く残った。
どれも嘘ではないのだろう。
だからこそ、厄介だった。
事務職員が知りたいのは、担当だったという事実だけではない。
どんな声で呼ばれたのか。
どれくらい近くに立ったのか。
どこへ触れ、どんな顔をされたのか。
それに恋人が、どう応えたのか。
けれど、それらは利用者の支援情報だ。
恋人だからといって、聞いていいものではない。
正しい線は見えている。
見えているから、踏み越えられない。
「また、その紙見てるな」
声に気づくと、ハイエナが窓口の外に立っていた。
事務職員は、自分が配置表の同じ場所を長く見つめていたことを知った。
「今日は何の用?」
「お前の顔見に来た」
「そういうのは用とは言わないよ」
「俺には用だ」
ハイエナはいつもの椅子へ座った。
少し黙ってから、事務職員は配置表を伏せる。
「君、あの青年の介助、見たことある?」
「ある」
返事はあっさりしていた。
事務職員の指先が、紙の端へ食い込む。
「……どんな感じ?」
「言えねぇ」
「君まで?」
「そいつのことだからな」
突き放す言い方なのに、答えはどこまでも正しかった。
利用者同士にも、話していいことと悪いことがある。彼はそれを理解している。
「みんな、俺が聞いてないところでは知ってるんだね」
「全部知ってる奴なんかいねぇよ」
「でも、俺よりは見えてる」
「見えてるとこが違うだけだ」
慰めるでもなく、否定するでもない。
事務職員は思わず笑った。
「君、意外とまともなことを言うんだな」
「俺のことなら何でも言う」
顔を上げる。
ハイエナは真っ直ぐにこちらを見ていた。
「聞かれたことも、どこで誰と何してたかも。お前が知りてぇなら、俺は言う」
「それは、守るものがないからじゃない?」
「違う。お前に隠したくねぇからだ」
欲しかった言葉だった。
欲しいと思ってはいけない形で、ずっと欲しかった言葉だった。
「俺なら、そんな顔させねぇ」
以前聞いた時には、ずいぶん自信過剰な言葉だと思った。
今は、笑って受け流すまでに少し時間がかかった。
「君は、俺の恋人にはなれないよ」
「今はな」
「ずいぶん諦めが悪いね」
「狙ったもんを、簡単に捨てる奴がいるかよ」
ハイエナはそう言って、事務職員の顔を観察するように目を細めた。
*
準備区域では、その日も介助職員が水域由来の青年霊獣を担当していた。
「今日は自分で結ぶ」
「うん。難しかったら、どこが難しいか教えてくれ」
彼は背面の紐へ何度か手を伸ばした。指が届かず、身体をひねる。
介助職員はすぐには触れず、鏡の角度を変え、紐の先を肩越しに見える位置へ置いた。
「これなら?」
「できそう」
時間をかけて、彼は自分で結んだ。
振り返った顔は嬉しそうだった。
「できた。褒めて」
「よくやった。次も同じやり方でいけるな」
「ご褒美は?」
「記録に達成って書いておく」
「それだけ?」
「それだけ」
介助職員は笑っていたが、距離は縮めなかった。
必要以上に触れない。甘い声へ乗らない。けれど拒絶して傷つけることもしない。
廊下の端から見ていたハイエナは、舌打ちを飲み込んだ。
欠点を探すのは得意だった。
歩き方、視線、声の間。相手が何を嫌がり、何を欲しがるか。群れで獲物を追う時も、先に崩れる場所を見つけた者が有利になる。
だが、介助職員は見れば見るほど、崩しやすい男ではなかった。
浮つかない。線を守る。誰かの好意を、自分の価値を確かめるために使わない。
事務職員の話が出れば、声が少しだけ柔らかくなる。
まともであればあるほど、腹が立った。
「何見てる?」
介助職員が気づき、こちらへ歩いてくる。
「別に」
「次、お前の歩行訓練だぞ」
「分かってる」
「今日は段差じゃなくて混雑回避な。昨日より少し難しい」
当然のように予定を説明し、当然のように隣へ並ぶ。
ハイエナはその横顔を見てから、わざと一歩遅れて歩いた。
*
その夜、事務職員は恋人と向かい合って食事をした。
今日の仕事はどうだった、と聞かれた。
忙しかったよ、と答えた。
そっちは、と聞き返しかけて、やめた。
何を答えられても、きっと満足できない。
詳しく言われれば守秘を疑い、言われなければ遠ざけられた気がする。
「どうした?」
「何でもない」
介助職員は心配そうに見ていた。
その目が好きだったはずなのに、今は、その優しさが自分だけに向けられるものではないことまで考えてしまう。
何が聞きたいのか。
何を聞けば安心できるのか。
何を守りたくて、誰から奪いたいのか。
事務職員には、もう分からなくなり始めていた。
コメント
1件
読み終えました。今回は、見たくないものまで見えてしまうことのしんどさがすごく伝わってきた話でした…。 事務職員が「知りたいのに、聞いちゃいけない」って線を守りながら、でもハイエナに「お前に隠したくねぇ」って言われて、欲しかった言葉なのに欲しいと思っちゃいけない形で受け取るしかない感じ、胸がぎゅっとなりました。 介助職員のプロとしての距離感も、ハイエナの崩せない苛立ちも、全部が静かに絡まってて、この重さがたまらないです。次が気になります。
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