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第4話 手が震える
その名前を、別の名へ置き換えたいと思った。
事務職員は、配置表を開いたまま動けなくなった。
水域由来霊獣の衣服適応支援。
担当者欄には、今日も恋人の名前がある。
別の職員が担当すればいい。
彼でなくても、支援はできる。
配置を決める者へ、それとなく相談してみたらどうか。
そこまで考えたところで、指先が冷えた。
自分は今、利用者に必要な支援より、自分の安心を優先しようとした。
恋人の仕事を尊敬していると言いながら、その仕事から誰かを遠ざけようとした。
配置表を閉じる。
しばらくして、また開く。
名前は変わっていなかった。
*
その夜、介助職員は事務職員の部屋にいた。
食事をして、他愛のない話をして、湯を使った。
何度も繰り返した時間なのに、二人の間には薄い膜が張ったようだった。
事務職員は寝間着へ袖を通し、胸元の留め具へ手をかけた。
ひとつ留め、次を飛ばし、また外す。
考え事をしている時の癖だった。
「違ってる」
後ろから言われて、ようやく気づいた。
「本当だ」
「貸して」
「自分でできるよ」
「知ってる。でも、今日は俺がやりたい」
介助職員は正面へ回り、問いかけるように手を止めた。
事務職員が頷いてから、掛け違えた留め具を外し始める。
仕事の手つきとは、きっと違う。
そう思った瞬間、聞かずにはいられなかった。
「君、仕事でもこうするの?」
手が止まった。
「……どういう意味?」
「更衣介助。留め具を外したり、結んだり」
「必要なら」
「あの子にも?」
介助職員はすぐには答えなかった。
怒ったわけでも、呆れたわけでもない。ただ、どこまでなら話せるかを考える顔をした。
「特定の利用者の支援内容は話せない」
「分かってる」
「ごめん」
「謝らないでよ。君は正しいんだから」
正しい。
いつだってそうだった。
介助職員は外した留め具から手を離した。
「他の子なら平気だよ。仕事だから」
静かな声だった。
「必要なところを確認して、同意を取って、必要な分だけ手を貸す。そこに変な意味はない」
「うん」
「でも俺、お前の更衣介助なら手が震えるぞ」
冗談めかした言い方に、事務職員は顔を上げた。
「だったら、やってみてよ」
「え?」
「最後まで留めて。介助してみてよ」
介助職員は困ったように笑った。
それでも、もう一度許可を確かめてから、胸元へ手を伸ばす。
一つ目。
指が布へ触れる。
二つ目。
呼吸が近い。
三つ目で、金具が小さく鳴った。
本当に、手が震えていた。
「ほら」
介助職員は照れたように笑う。
「お前だと、仕事みたいにはできない」
嬉しかった。
自分だけは違うのだと、身体で分かった。
今日一日、胸を塞いでいたものが少しだけほどけた。
だから、続けて聞いてしまった。
「他の子の時は?」
震えていた手が、止まる。
「……それは話せない」
ほどけたものが、また固く結ばれた。
「俺の知りたい話は、聞けないんだよな?」
「……うん」
「俺の時だけ違うって言われても、比べる方を俺は見られない」
「見せていいものじゃないから」
「分かってるよ」
声を荒らげたかったわけではない。
責めたかったわけでもない。
介助職員が守秘を破らない人だから、好きになった。
誰かの弱さや恥ずかしさを、親しい相手への土産話にしない人だから信じた。
その正しさが、今は自分を締めつけていた。
「俺さ。君のそういうところ、好きだったんだよ」
「だった?」
「今も好きだよ」
介助職員の顔が、わずかに歪む。
「でも最近、仕事してると、君の名前を見るのが嫌になる時がある」
言葉にすると、思っていたよりずっと醜かった。
「今日なんか、配置表を見て、別の職員に替えてもらえばいいって思った。あの子に必要な支援なのに。君が悪いことをしてるわけでもないのに」
「それは、俺の仕事の仕方が――」
「違う。君は何も悪くない」
だから困るのだ。
悪いところがあれば、直してほしいと言えた。
浮気をしているなら、怒って終われた。
「このままだと、そのうち言うと思う」
「何を」
「……辞めて、って」
介助職員は黙った。
胸元には、まだ二つ留められていない金具が残っていた。
「言われたら、俺はたぶん、お前を嫌いにはならない」
「うん」
「でも、辞められない」
「うん」
「……俺は辞めたくない」
事務職員は頷いた。
「知ってる」
知っていた。
人が自分でできることを増やしていく瞬間を、彼がどれだけ大切にしているか。
必要な時に手を出し、必要がなくなれば離す、その仕事をどれだけ愛しているか。
それを奪ってまで、自分のそばへ置きたい人にはなりたくなかった。
けれど、奪いたいと思い続けながら笑うことも、もうできなかった。
「別れようか」
どちらが言ったのか、あとになっても分からなかった。
介助職員はすぐには手を離さなかった。
事務職員も、その胸へ額を預けた。
好きだと言った。
好きだと返された。
愛情がなくなったからではなく、愛情の形をこれ以上歪めたくなくて、二人は別れた。
やがて介助職員が帰ったあと、事務職員は鏡の前に立った。
途中まで留められた寝間着の、残り二つへ自分で指をかける。
一つを留め、最後の一つを留めようとして、事務職員は自分の手も震えていることに気づいた。
コメント
1件
いやあ……読んでて胸がぎゅっとなりました。 「他の子の時は?」って聞いちゃう気持ち、すごく分かるんですよ。正しさを好きになったのに、その正しさに自分が締め出される苦しさ。最後の、自分で留め具を直そうとして手が震えてるところで、もうダメでした。二人とも悪くないのに、二人とも傷ついてる。この「正しいからこそ壊れる」関係の描き方が、本当にうますぎます。次が気になる……。
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