もうむり…あいつむり…。
むりむりむりむりっ!
頭を手で強く抑え泣きそうになるのをどうにか慰める。バスから降りた私は家に向かって走っていた。
あのストーカ野郎…どこかで死んでくれないかなぁ?!
それとも私の自意識過剰か?!
いや違う。あいつは正真正銘いかれてるんだ。
どうにかストレスに満ちたこの気持ちを紛らわそうと全力で走ったせいで、熱を持った血液が全身を駆け巡り、熱く身体がほてっていた。あの瞬間の記憶は常に頭の中を満ちていた。
バスが来る寸前あいつは私から腕をほどき、
「また明日。」
そう言い残してその場から離れた。辛うじてバスに乗り込んだ私は何を感じていたのか身体が震え続けていた。
私は…私を守らなくては。
そう、心の底から思った。
触りなれた引き戸に手を掛け、息を整えるため深く深呼吸をした。お母さんに伝えよう。きっとこの異常性に共感してくれるはず。私がいかにやばいやつと関わっていたのか教えてくれるはず。目をゆっくりと開き、手に汗が滲んでく。
・第一声、ただいまと言う。
・そしてその次に、お母さん私、道浦ってやつにこんなこと言われてあんなことされて…。
そうだ。これだけでいいんだ。これだけを言えばいい。十分伝わるさ。
鼓動が低く早くこだまし、この後の身体の動かし方を見失いそうになる。私は緊張などしていない。大丈夫、イメージ通りに動作すればいいだけ。大丈夫怖くない。怖くない。よし…。行くぞ。
引き戸を勢い余って大きく開いてしまう。やってしまった。と内心焦りつつ、お母さんがソファに座ってスマホをいじっていたのを見つける。
ただいま
「…っ…た…た………ゅ………。」
何度もイメージしていたはずの言葉が突っかかり思うように出てくれなかった。なにしてんだ!反射的にせめてもの思いで床に強く視線を送る。視界いっぱいにこれでもかと言うほど茶色のフローリングが目に映る。言わなきゃ。ここで言うって約束したのに!再び大きく息を吸う。言わなきゃ言わなきゃ絶対にここで言うんだ。靴を脱いで片足ずつ床を歩いてなんでもないように動くんだ。さあ、動くんだ。動けよ…動けよ身体!指先さえも言うことを聞いてくれない感触に懐かしいものを察し、恐怖を感じ、自分に怒りを向ける。はあ…?引き戸を開けたままの姿で私は動いてくれなかった。だめだ…。だめだだめだだめだ。ばれてしまう。またこの症状か…!呑気な身体とは裏腹に色んな感情は激しく這いずり回る。
「……ぐ……んっ…ん…。」
目から涙が出るのをこらえるほどに声が漏れ出てしまう。何泣きそうになってんだ私…!心で喝を入れるが生理現象に効果はない。なんとかして言葉を押し出そうとするほどに崖から突き落とされそうな感覚になっていた。大丈夫、大丈夫、怖くない、怖くない…!これは全て私のため、これは全て私にのためにすることなんだ。私のために。私のために…!乱れそうな呼吸を整えるのに精一杯になっていた。
何を感知したのかお母さんがこちらを睨んだ気がした。
あ…終わった…。
二階へ上がれ。落ち着いて体勢を整えてから伝えればいい。
自分の冷静な判断に納得し、今にも破裂しそうな風船頭のまま私は二階へと歩みを進めた。
二階へ上がる。それだけ。
それ以外は何も、何一つ考えるな自分。
ゆっくりと遠ざかって行くのは一階を支配するお母さんの気配。もう大丈夫…。大丈夫…。
何も問題は解決していない。しかし、一つの課題の山でも乗り越えたかのように身体が開放された。柔らかく無言で迎える自分のベッドに倒れ込んでみる。心が沈み、包み込まれる感触に果てしなく安心する。
安心などしていない。なぜならこうして私は布団の中に身体を押し込み外界との繋がりをシャットアウトしてしまった。まだ私は言っていない。言わなきゃ…言わなきゃ言わなきゃ言わなきゃ言わなきゃ…………。
思考回路は鈍くなっていた。逃げるな。逃げるな逃げるな…。甘えるな甘えるな甘えるな……。眠い…眠い…。もう嫌だ…。もう嫌だ…。今ある問題は一つだけ。しかし、いろんなものがそれに連なって脳を喰い込み拘束していく。
うだうだとしていると時間は0時を過ぎていた。私はいつしか眠っていたらしい。
眠ったお陰で張り詰めていた感情は少し安定していた。私は重いものを背負ったまま一階へ降りる。机にはラップの被せられたハンバーグと野菜が用意されていた。
「ご飯できたよ。レンジでチンして食べて。」
「はい」
いつも通りの日常。このままでいいんだ。私は料理をレンジに運ぶ。
「じゃあ、私もう寝るねー。」
「はい」
全ての景色が白く濁り、道浦のことなんてもう、どうでもいい感じになっていた。別に大したことないや。自意識過剰なんだよ。私は…。この生活が守られるなら、もう別にどうでもいいや。
どうせ誰も私のことなんて見つけられない。
家に帰るとたちまち白く濁る世界と感情。閉じこもる思考。
彼女が☓☓未遂をしてから母の態度は急変した。子と母の間には目に見えない塞がれることのない大きな溝が生まれてしまっていた。
お互いに触れることを許されない溝。
触れてしまったなら壊れてしまうような。
私は…そう感じた。
「いってらっしゃい。」
「はい」
頭は重いが心地よい日光が照りつける。できるだけ日の光の下を歩く。朝方において影になっている所は流石に寒いと感じるようになってきた。結局なにもしないまま、私は学校に行っていた。道浦から何をされていたのかもぼうっとしていてなんだかどうでもいいように感じていた。
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執筆お疲れ様です😊 楓果ちゃんの迫真さがこちらまで伝わってきました… 一つ一つの心情が細やかに、且つ分かりやすく書かれているので、 その場にいるような感覚を覚えました。