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窓越しから見える、遥か遥か遠くの柿色の空。日暮れは随分と遅くなったみたいだ。柿色に混ざって、私たちの世界を包み込んでくれる新緑色と瑠璃色の空はどこか哀しくて、でも希望も抱かせてくれる素敵な色。
雲はなくて、水彩画の聡明で繊細な世界。
みんなとここで出会えた奇跡。
ひと握りの偶然にも感謝した。
私と絵描きさんは、おとぎの世界の入口へ通じる扉の前で、あこちゃんと紳士を出迎えた。
車いすの車輪の回る音は、時計の針が時間を刻んでいく音と似ている。
メイド服を身に纏った私と、絵描きさんは扉に手をかけた。
その時、あこちゃんがゆっくりと立ち上がって私達の方へと歩み寄って来た。
静かに。
だけど確実に自分の意思で、自分の足で歩を進めてくれている。
瞳は輝いていた。
虹色の瞳、水晶の瞳、言葉が見つからないけど、サラサラとした小川のせせらぎのような、弱弱しくも行き先を受け入れている心のままの瞳―。
紳士はその後姿をしっかりと受け入れている。
私と絵描きさんはゆっくりと扉を開いた。
何もない漆黒の世界があこちゃんの前に広がる。
しかし、それはほんのひと時の出来事だ。
バッハの。
「管弦楽組曲第三番第二曲 アリア」
の、メロディーが流れ出る。
チェンバロの音色は草花に残ったちいさなちいさな雨粒のよう。
それらが風に舞ってポンポンと跳ね落ちる。
ヴァイオリンとヴィオラの音色は、ママに抱かれていた幼い頃のやさしくて大きな手のぬくもり。
チェロの音色はパパの広すぎる背中から伝わる逞しさ。
ステージに延びていく桃色のカーペットに光が差し込んでいく。
その道の両側には、私と同じメイド服を身に纏ったマネキン人形達があこちゃんを出迎えている。
表情は豊かで、皆微笑みを浮かべている。
チークや口紅を施された彼女達には生命が宿って。
「おかえり」
と、語りかけているみたいだ。
あこちゃんは彼女たちの天使の表情を見て。
「わあ…」
と、呟いた。
その瞳は一層に、ビー玉みたいに輝いて見えた。
チェンバロの音色が跳ね続ける―。
ゆったりと、平静さを保ったままの水玉みたいに。
あこちゃんの左手を絵描きさんがしっかりと掴んでいる。
私は右手を、その柔らかな右手を握りしめて一緒の歩調で歩んで行った。
後ろでは紳士が見守ってくれている。
私は語りかけたかった。
「大丈夫、絶対に離さないからね!」
と。
ヴァイオリンとヴィオラの音色が絡み合う。
小鳥たちが真っ青な空でぶつかることもなく飛んでいる旋律。
凛とした秩序と包容力、寛容さに満ち溢れている世界に私達は今足を踏み入れている。
確実に。
ステージ上の両端には枯れ果てた大木。
その崩れてしまいそうなか細い枝に明かりが灯る。
白すみれ色、若緑色、若草色、ひまわり色、杏子色、乳白色、代わる代わるに瞬く灯りは季節の移り変わり。
あこちゃんの手は震えていた。
私の心に、意識に、身体に、命の強さが溢れてくる。
『神様お願い。どうかこの子を守ってあげてください!』
ステージ中央に巨大なスクリーン。
チェロの旋律に合わせて景色が変化して行く。
山のふもとに架かるおおきな虹の橋。
風に揺れる向日葵。
雪山を駆け抜けるシカの群れ。
しだれ桜の花吹雪。
『神様。どうかあこちゃんをお守りください!』
私は再度祈った。
―私達も同じなんだ。
みんな一緒なんだよ―。
さらさらと、桜色の紙吹雪が空間に舞い始めると、あこちゃんは歩みをやめて天を見上げた。
雪のように舞い落ちる桜の花びら。あこちゃんの心にはどう映っているのだろう。
あこちゃんの大きすぎるマスクがかわいく動いた。
「わあ…」
今度は私が、あこちゃんの手を強く握り返す時だ。
「大丈夫!ずっとずっと一緒にいるからね!」
スクリーン全体に映る桜吹雪と、舞い散る花びらは一層力強く。そして激しく―。
ステージ最前列の特等席は二人分用意されている。そこにスポットライトがあたるとクマの親子のぬいぐるみがあこちゃんと紳士を待ち構えていた。
二人の留守を、食堂でずっと待っていたぬいぐるみだ。
あこちゃんはその小グマが手にしていたカードを手に取って長い間見つめていた。
ささやかで美しい沈黙だった。
紳士もあこちゃんの傍らに寄り添って、そのカードを見つめていた。
チェンバロとヴァイオリンとヴィオラ、それにチェロの旋律が、透明な湧き水となって大河へと混ざり合った瞬間、あこちゃんの瞳からポロポロと涙が溢れ出た。
いつまでも零れ落ちていた。
涙が枯れるなんてのは嘘だ。
私はそう思った。
「おかえり」
の文字が、カードには書かれてあった。