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「……元貴! 若井! 頼む、返事をしてくれ!」
潮風が叩きつける廃屋の重い扉を、涼架が肩で何度も突き飛ばす。
背後には、赤い光を回転させるパトカーと、無機質な無線機の音が響いていた。
警察官たちが制止するのも聞かず、
涼架は狂ったように叫び続け、ついに錆びた蝶番が悲鳴を上げて扉が崩れ落ちた。
「——……っ」
室内に飛び込んだ涼架の動きが、
凍りついたように止まった。
そこには、彼が想像していた凄惨な光景も、
激しい争いの跡もなかった。
窓から差し込む、冷たくも美しい冬の朝焼け。
その光に照らされた部屋の中央で、若井と元貴は、まるで深い、深い昼寝をしている子供のように、寄り添って横たわっていた。
「……なんだよ、これ……」
涼架の膝が折れ、ガクりと床に崩れる。
二人は、若井の分厚いコートを二人で分かち合うように掛け、若井が元貴の細い体を背後から守るように抱きしめていた。
元貴の顔は、かつてステージで見せていた「大森元貴」の仮面を脱ぎ捨て、
ただ一人の男に愛され、守られた安堵感に満ちた、驚くほど穏やかな微笑を湛えている。
そして、二人の首には、
一本の細い鎖が絡み合っていた。
その先で鈍く光るのは、
あの銀色の、301号室のスペアキー。
「……お前、本当に……
あいつを奪っていったんだな、若井」
涼架は震える手で、元貴の冷たくなった頬に触れた。
そこにはもう、歌うための喉も、絶望に震える肩も、自分を必要とする「天才」の姿もない。
若井が、元貴の「闇」も「過去」も、そして「声」さえも、全てを道連れにして、彼をこの世界から隠し通してしまったのだ。
ふと、涼架の目に、
廃屋の煤けた壁に刻まれた文字が映った。
鋭い何かで、必死に、けれど慈しむように刻まれた、歪な筆跡。
『——隣の声は、もう俺だけのもの。』
それは、かつて真面目なサラリーマンだった若井が遺した、最初で最後の傲慢な愛の宣言だった。
警察官たちが二人を運び出そうと手をかけるが、若井の腕は死後硬直によって、元貴を離すまいと固く凍りついていた。
引き離そうとするたび、銀色の鍵がチリ、と微かな音を立てる。
それはまるで、「邪魔をするな」と二人が笑っているような、不敵な音だった。
数年後。
あのアパートの301号室と302号室は、未だに空室のままだという。
夜深く、静まり返った廊下に立つと、壁越しに微かな歌声が聞こえるという噂がある。
一人は、透明な声で愛を歌い。
一人は、それを愛おしそうに、
独占するように聴き入っている。
二人の「じれったい恋」は、誰にも暴かれることのない暗闇の中で、今もなお、甘く、深く、続いている
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