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──その日の教室は、なにかが違った。
いつもと同じ、朝のざわめき、チャイムの音、教師の話す声。そして昼休みの喧騒。 だが、遥の皮膚の内側にだけ、確かに張り詰める気配があった。
「今日、“試してみる”んだってさ」
背後で囁かれる声。 耳に届くその響きに、遥の指先がわずかに震えた。 教室の奥、カーテンの向こう側──その“いつもの場所”に、見慣れない黒いポーチが置かれているのを見た瞬間、背中を汗が伝った。
「誰がやる?」 「俺は前にやったから……」 「じゃあ、今日は二年のあいつ。こっちの学校にも通ってるらしいよ」
見たことのない上級生が、笑いながら手袋をはめていた。
遥は逃げなかった。 いや、逃げられなかったのではない。逃げる意味がもうわからなくなっていたのだ。 逃げた先にも教室があり、家があり、日常がある。そこには、もっとわかりにくくてやっかいな痛みが潜んでいることを、彼はもう知ってしまっていた。
だから、押し込まれるようにしてカーテンの向こう側へ連れていかれたときも、無言だった。 頭上の蛍光灯の音が異様にうるさく響いていた。
「これ。ちょっとだけだから」
そう言って、誰かが机の上に並べた。 プラスチック製のクリップ。家庭科で使うような鋏。金属のスティック。
遥は、冷静だった。 あまりにも現実味がなかったから、かえって冷静になってしまった。
「さ、最初は誰?」
指名された生徒が、ためらいなく、スティックを手に取る。 シャツの裾が持ち上げられ、腰骨のあたりに金属が当たる。 ひやりとした感覚のあとに、ぐっと押し込まれる圧。
痛い──そう認識する前に、音が出た。
「……っ、あ……っ」
声が漏れた。 反射的に歯を食いしばる。だが、周囲の目はそこだけを捉えている。
「ほら、今の。録れた?」「声、いいじゃん。今日イチ」
笑い声。シャッター音。 もう一人が別の道具を持って寄ってくる。
「こっちは挟むやつね。見せて」
襟元が引き下ろされる。 抵抗しても意味はない。 爪が皮膚に食い込み、衣擦れの音と、笑いと、指の動きだけが空間を支配する。
そのとき──遥は笑った。 ほんの一瞬。歪んだ、ひきつった笑みだった。
「……おまえらさ、楽しそうで何よりだな」
誰かが動きを止めた。 笑いが、空白になる。
「……なんだよ、それ」
問いかけに答えず、遥はただ、目を逸らさなかった。
「で、次は? その道具、もうひとつ残ってるだろ」
開き直りではない。負けたふりでもない。 ただ、無力であることを受け入れて、なお声を失わない、遥自身の“戦い方”だった。
教室の外では、昼休みのチャイムが鳴っていた。
“開かれた密室”の中で、誰も、何も、言わなかった。