朝のチャイムが鳴り終える頃、教室はすでに出来上がった空気で満たされていた。
ざわつきはあったが、それは“日常”の範疇に収まる程度のもので、教師が入室すれば自然と収束する。だが、その日、誰も口にしなかったのは──遥が、既に教室の片隅にいたという事実だった。
窓際の、二列目の最後尾。陽の当たらない席。 いつも通り、机に頬杖をついて目を伏せていたが、身体がかすかに震えているのは近くで見なければ分からない程度だった。
──昨日の“それ”を、誰もが知っていた。 どこで、誰が、どこまで見ていたのか。それはもはや問題ではなかった。全員が、知っている。知っているくせに、知らないふりをしていた。
「なあ、今日さ──」
前の席の男子が、半笑いで隣の友人に囁いた。 声は小さいが、届くように話される。誰かが笑う。それだけで、空気の一部が明確に動く。湿度が、温度が、視線の角度が、変わっていく。
「……今日、俺らの班じゃなかったっけ?」 「いや、別に決まってねえって」 「でも、あいつ昨日声出してたよな? ウケた。録ったやつ、聞く?」
笑いながらスマホを取り出す仕草。見せびらかすわけではなく、ただ“見せる準備”としての動き。
「やめとけって。……先生来るから」
一人が苦笑交じりに制止した。 だがそれも、本気ではない。彼の手は、スマホを止めようとするわけでも、笑いを咎めるわけでもなかった。
その一瞬、遥がゆっくりと顔を上げた。 黒い前髪の隙間から覗く視線は、何も言わずにただ、見ていた。 誰かの目と合ったかもしれない。だが、その目はすぐに逸らされる。
まるで「見られた」ことに罪悪感を抱いたように。
──罪悪感など、最初からなかったくせに。
ホームルームが始まる。 担任が名簿を読み上げている間、教室の空気は一時的に凪いだ。 それでも、どこかしらには波打つざわめきが潜んでいる。
「……波多野?」 「はい」
遅れて返事をした遥に、担任は一瞬だけ視線を向けた。 だが、特に何も言わない。何も起こっていない、という扱い。
静かな時間の中で、椅子の脚が床をかすめる音だけが目立つ。
放課後の、予定も決まっていない。だが、全員が「何かある」と知っている。 そして、その“何か”の中心にいるのが誰なのかも。
──今日もまた、同じ日が繰り返される。
「なあ、今日の班、どうする?」 「……波多野、空いてるっぽいよ?」
教科書を閉じながら、誰かが軽く笑った。 その笑いに、誰かが合わせて笑う。
“班”という言葉。 本来は授業用のグループ分けだったはずだ。 けれど今は、それが別の意味で使われている。
──今日は、誰が、どう使うのか。
そして、生徒たちはもう“それ”を日常の一部として受け入れ始めていた。
誰もが最初は「関係ない」と思っていた。 けれど、関係ないということは、関与しないということではなかった。 回覧された動画、覗き見た写真、耳に入った録音。 ただ笑っていた。見ていただけだった。 そして今では、手を貸すことにすら抵抗がなくなっている。
チョークを拾わせる、雑用を命じる。 小さな“命令”が、遥の身体に蓄積されていく。
「おい、波多野。これ、運べよ」
「……自分でやれよ」
低く返した声に、空気が凍る。 数人が、反射的に遥のほうを見た。 何かが壊れた音を聞いたように。
「……いま、何て言った?」
教室の奥で誰かが呟く。 次の瞬間、机がわずかに動いた。 椅子の脚が床を引っかき、立ち上がる音。
背後からの足音。
遥は、立ち上がらない。 ただ、目を伏せていた。
──黙っていれば、済むことじゃない。 ──だけど、黙っていれば、いつまでも終わらない。
そんな理屈は、遥自身がいちばんよく分かっていた。
それでも──この教室では、声を出すことすら、選択のひとつだった。
「ほら、また声、聞きたいってさ」
誰かが笑った。 もう笑っていない生徒もいた。 だが、誰も止めなかった。
こうして、また一日が、始まる。