桜那は次の撮影に不安を覚えていた。
いつもの作品と趣が異なり、三人の男に拉致されてレイプされるという、いささかハードな内容だったからだ。
AVにはよくありがちな内容だが、監督が臨場感を求めた為、演技力が要求された。その為縛られたり、首を絞められるシーンなども極力本気で行くとの事だった。
普段の桜那なら、それも厭わずやってのけただろう。だが今の精神状態では、役に入り込むのですらままならなかった。
そしていよいよ撮影の日を迎えた。
桜那はいつものように前日から誰とも会わず、役へ入り込むのに集中していた。ヘアメイクの間も、顔をこわばらせ一言も喋らず精神統一した。
……大丈夫、今日は震えてない。
桜那は手のひらをじっと見つめ、ぐっと握ってはパッと離す動作を繰り返した。声がかかると、深呼吸して頭を切り替えてから撮影に臨んだ。
今日の撮影は、内容がハードなだけにスタッフやマネージャーも固唾を呑んで見守っていた。
桜那は暗い地下道を一人歩き、そこで台本通り三人の男に車へ押し込まれ、連れ去られる。ここまでは普段どおりの集中力で演じる事が出来た。
次はいよいよ本番のシーンだ。
古い倉庫に連れ込まれ、二人の男に抑えられて、無理矢理服を脱がされた。
その時だ、男優が服に手をかけた瞬間、桜那は心の底から恐怖を感じて悲鳴を上げた。
「いや‼︎やめて‼︎」
桜那は本気で抵抗していた。
「うるせぇ!静かにしろ!」
男優が怒鳴り、桜那の顔に平手打ちをした。
臨場感を出す為に、このシーンは手が顔に多少当たっても構わないと伝えていた。だが桜那が本気で抵抗した為まともに喰らってしまった。
桜那が倒れ込み、頭がクラっとして起き上がれずにいると、すかさず結束バンドで後ろ手に縛られた。
髪を掴まれ、無理矢理顔を上げられると、叫ぶ間もなく口唇を押し当てられ、舌を捩じ込まれた。
男優の唾液が流れ込み、桜那は嫌悪感から身の毛がよだち、涙を流した。
……いや!気持ち悪い!宏章!助けて!
だが非情にも撮影は止まる事なく続いた。
男三人にかわるがわる体を弄ばれ、桜那は必死に抵抗した。
桜那は頭では撮影だと理解していても、体が拒絶反応を起こしていた。二人の男優に身体中を貪られながら、もう一人の男優にペニスを喉奥まで突っ込まれた。桜那は苦しさのあまり、思わず「うっ!」とえずいて咽せてしまった。普段の撮影は集中して、フェラの加減をコントロールしていたので、苦しさで咽せたのは初めてだった。大量の唾液を吐き出し、桜那は我に返った。
……しっかりしろ!集中して!苦しい表情も意識するんだ!
桜那は自分に言い聞かせて、顔を上げた。
その時、自分を取り囲むすべての目に戦慄を覚えた。
まるで周囲を猛獣に取り囲まれて、逃げ道を無くした四面楚歌の獲物の様に。
桜那は悲鳴を上げ、もう撮影という事も忘れて、泣き叫びながら本気で抵抗した。
桜那は思い切り暴れるが、男三人がかりでは到底力で敵うはずもなく、簡単に抑えられてしまった。
台本通りだと、ここで挿入されながら首を絞められるという流れだ。だが桜那のあまりの暴れぶりに、男優も首を締める手に思わず力が入ってしまい、苦しさで桜那は意識が遠のいた。その後は朦朧とする意識の中、わずかに残されたプロ意識でなんとか撮影をこなした。気付いたら、男優三人に顔射されて撮影が終了していた。
その後はもう、どうやって帰宅したのかも覚えておらず、いつの間にか自宅の玄関でへたり込んでいた。手のひらに視線を向けると、小刻みに震えていた。次第に体まで震え出し、桜那は体をぎゅっと押さえて泣き出した。
激しくしゃくり上げ、桜那はトイレに駆け込んで嘔吐した。吐いてもなお涙と震えは止まらず、何度も吐いて、とうとう胃液まで吐き出した。全てを吐き出して、胃が空っぽになると、ようやく震えは治まった。
桜那は涙と鼻水を流したまま、便器をぼんやりと見つめ、しばらくそのままへたり込んでいた。
「桜那!」
壁に寄りかかり目を閉じると、自分の名前を呼ぶ、優しい笑顔の宏章の顔が浮かんだ。
……もう何もいらない、私はただ「普通」になりたいだけ。
……後ろめたさを感じる事なく、ただ純粋に宏章を愛したいだけなの。
2
桜那は昨晩トイレで吐いたあと、そのまま目覚ましもかけずにベッドで眠り続けた。目を覚ました時には、部屋は真っ暗だった。
……今何時?
傍にあった携帯へ手を伸ばした。時刻は18時を過ぎていた。
……宏章のステージ19時半頃だっけ。
桜那は行くかどうか迷っていた。
普段ならビデオ撮影の翌日は、精神をニュートラルな状態にする為、必ず仕事はオフにして、誰にも会わず一人部屋に籠って過ごすのがいつものルーティンだった。昨日の撮影はどうにか気力で乗り切ったものの、体力的にもハードだった為、桜那は疲労困憊だった。
……でも、今日はどうしても宏章に会いたい。
桜那は無性に宏章に会いたくなり、重たい体を起こして出掛ける支度をし始めた。
いつものルーティンを崩す事に抵抗はあったが、今日はもう夜だし、少し顔を見るだけだからと自分に言い聞かせた。
洗顔して、鏡を覗くと目の下に隈ができていた。昨晩吐いたせいか顔色も悪かった。
……ひどい顔。
桜那はコンシーラーを取り出し、厚めに塗って誤魔化した。
胃の奥がズキンと痛む。
昨晩は胃液まで吐いて、胃の中は空っぽだった。
桜那は昨晩から何も食べていない事に気付き、冷蔵庫にあったサンドイッチとカフェラテを口にして、胃薬を流し込んだ。
服を着替えて帽子を目深に被り、タクシーを呼んだ。ライブハウスに着く頃にはすでに20時を回っていた。出演者が書かれたボードで確認すると、ちょうど出番が終わった頃だった。
人混みが凄いので中に入るのを躊躇ったが、ここまで来たからには顔だけでも見て帰ろうと思い、楽屋へ向かった。スタッフに名前を告げると、あらかじめ伝わっていたのかすんなり中へと案内された。
楽屋は所狭しと機材が置かれて人でごった返しており、桜那は押しつぶされそうになりながら宏章を探した。
……あ、いた!
人混みをかき分け、前へ進むと宏章の周りに人だかりが出来ているのに気が付いた。
女の子二、三人に囲まれて、何やら楽しげに話している。宏章はいつもと違い、きっちり髪がセットされていて、眼鏡はしていなかった。
……そういえば、ライブの時はコンタクトなんだっけ。
宏章を囲んでいた女の子達は、みんな「普通そうな」女の子達だった。
仕事で沢山の男を相手にしている自分とは違う、普通の女の子。
……胃がシクシクする、来るんじゃなかった。
その時、宏章がふと桜那の方へ視線を向けた。
桜那と目が合うと、宏章は嬉しそうに屈託のない笑顔を向けた。桜那は眉間に皺を寄せて不機嫌な表情を浮かべ、ふいと視線を逸らし、入口を出て足早に階段を駆け下りた。宏章は女友達に「ちょっとごめん」と言って、桜那を追いかけた。
カンカンと音を立てて階段を下りると、後ろから「桜那!」と大きな声で宏章が名前を呼んだ。桜那は振り返る事なく進んだが、「桜那!待ってよ」と言って宏章が腕を掴んだ。
「桜那、来てくれたんだ!」
宏章はいつもと違う桜那の様子に不安になりながらも、笑顔で話しかけた。
桜那が黙り込むと、宏章は桜那の体を自分の方へ寄せて顔を覗き込んだ。
桜那の顔色が良くない事に気付き、心配そうに「桜那、具合悪いの?大丈夫……」と言いかけたその時……。
「触んないでよ!」
桜那は腕を振り払って、大きな声を上げた。
抑えていた感情がついに爆発してしまったのだ。
……私以外の女に、その綺麗な瞳を見せないで!
「彼氏面しないでよ!」
……感情のコントロールが効かない、止まらない!
「あんたみたいな地味な男、私が本気で相手にする訳ないじゃない!」
……こんな事が言いたいんじゃない!
……お願い、怒って!
……最低な女だって、怒ってよ。
訳も分からずキレられて、いくら温厚な宏章でもさすがに怒り出すだろうと思っていた。もしくは、いよいよ愛想を尽かされるだろうと。
桜那は宏章の方を恐る恐る振り返る。
宏章は虚ろな目をした後、みるみる悲しげな表情へと変わった。
「……そんな事、言われなくても分かってるよ」
宏章は堪えるように眉間に力を入れ、険しい顔でため息をついた。
「だけど、やっぱりちょっと傷つく……」
宏章は今にも泣き出しそうな瞳をしていた。そして、そのまま後ろを向いてまた戻って行った。
桜那も堪らずその場を立ち去る。
桜那は人目も憚らず泣きじゃくったが、早朝の仕事に備えて、なんとかタクシーを呼んで自宅へ戻った。宏章の顔を思い出すたびに胃が痛みだし、その晩は結局一睡もする事が出来なかった。
3
昨晩桜那と別れた後、宏章はよく寝付けなかった。眠ろうと目を閉じても、自分でもよく分からない虚無感に苛まれて目が覚めてしまう。やっとうとうとしかけた頃に、アラームが鳴った。
……仕事の時間だ。
宏章は重たい体を起こし、支度を始めた。
歯磨きをしながらベッドに腰掛け、いつもの様にテレビを点けた。朝の情報番組を虚ろな表情で眺めていると、気付けば天気予報の時刻が過ぎ、次の番組へと画面が切り替わっていた。
「ヤバい!こんな時間だ!」
宏章はハッと我に返り、慌てて立ち上がった。
身だしなみを整える気力も時間の余裕もなく、肩近くまで伸びた髪をひとつに束ね、クローゼットの収納ケースの手前にあったシャツへ袖を通し、アウターを着込んだ。靴を履いていると、先日母から送られてきた荷物が目に入った。段ボールを開けて中身を確認したっきり、玄関へ置きっぱなしにしたままだった。
段ボールからは、桜那の好きな日本酒の桜花が覗いていた。宏章は桜那の顔を思い出し、ふいと視線を逸らして急いで家を出た。幸いにも信号に引っ掛からなかった為、結局いつも通りの時刻に職場へ着いた。
着替えを済ませて倉庫に入ると、その姿を見るなり、上司の荒川が驚いて声をかけた。
「宏章、どうした?」
髭は伸びかけ、ぼさぼさの髪を束ねただけのルーズな姿に、生気のない顔をしていた。
「あ、今日ちょっと寝坊して時間なくて……」
「お前が?珍しいな」
「まぁ……、そんな日もありますよ」
宏章は心ここにあらずといった様子で、力なく返事をした。
「おいおい大丈夫か?今日顔色も悪いぞ」
普段とあまりにも違う様子に、体調の心配までされてしまう始末だ。
「あー、昨日あんま寝付けなくて……」
「最近納品多くて忙しかったしなぁ、体調悪かったら今日早く上がっていいぞ」
「大丈夫ですよ、体調悪いわけじゃないんで。今繁忙期だし、今日も納品多いからさっさと行きましょ」
「いやでも……」
荒川が気遣うが、宏章はいつも通り手際よく配送の準備に取りかかった。荒川はふっとため息をつき、「そうか。無理すんなよ」と言うと、携帯の着信に気づいて、もしもーし!と大きな声で話し始めた。
荷物を詰め込み、最終チェックを終えて荒川に声をかける。
「じゃ!行ってきます!」
「おう!気をつけてな!今日クリスマスイブだから、早く帰って来いって嫁に言われてんだよ」
荒川が上機嫌に答えると、宏章は今日が24日という事に気付いた。
「……じゃあ、早く帰ってあげないとですね」
「ここ数年は宏章がいてくれるから、俺も早く帰れて助かってるよ。お前は仕事早いから。俺が言うのもなんだけど、お前もさっさと彼女見つけろよ!」
荒川はそう言って、颯爽と持ち場に戻って行った。
……そうか、クリスマスイブか。
ここ数日目まぐるしく過ごしていたので、そんな事はすっかり忘れていた。何より昨日の桜那とのやり取りで、気持ちは全くそれどころではなかった。クリスマスイブなんて俺には関係ないしな……と心で呟き、エンジンを掛けて出発した。
逆に今日がクリスマスイブで助かったのだ、忙しく仕事をしていれば、桜那の事を考えずに済むから。
宏章は休憩がてら、納品の合間にコンビニへ立ち寄った。眠気覚ましにブラックの缶コーヒーを買って、車中に戻り一息つくと、ふと昨日の桜那の顔が過った。
……桜那、昨日怒ってはいたけど、悲しそうな顔してたな。
不機嫌そうな表情を浮かべつつも、その目は悲しみを湛えていた。
どうして悲しい顔していたんだろう?宏章はその表情が気になった。
携帯に手を伸ばすと、慎重に言葉を選びながらメールを打ち始めた。
『昨日はせっかく来てくれたのにごめん。もし俺が何か嫌な思いをさせたのなら、話してほしい―』
だが途中で桜那の言葉を思い出し、その手を止めた。
「あんたみたいな地味な男、私が本気で相手にする訳ないじゃない!」
宏章は暫く考え込んだ後、メールを削除して画面を閉じた。
初めから分かっていた事だ。こんなに綺麗で可愛くて、何もかも魅力的な娘が、自分なんかと付き合っている事自体不思議なんだ。
宏章は自分にそう言い聞かせた。
……もしかしたら、他に好きな奴が出来たのかもしれないな。
ナイフで切られて、血がドクドクと溢れ出るかの様に、胸の奥がズキンと痛み出し、たちまち全身に広がった。
連絡をしたら、はっきりそう告げられ、引導を渡されてしまうかも……もしもそう言われてしまったら、それ以上はもう、自分にはどうする事も出来ない。
宏章は暗い顔で缶コーヒーをぐいっと流し込むと、エンジンを掛けて仕事へと戻った。
いつもの倍の納品を終え、倉庫に戻る頃にはすっかり19時を回っていた。普段は遅くても18時前には納品を終えて倉庫に戻っていたので、さすがに疲労を隠せなかった。
……昨日あんま寝てないし、さっさと帰って寝よう。今日はもう、何も考えたくない。
気持ちを奮い立たせて倉庫に入り、「ただいま戻りましたー」と声をかけるが返事は無く、見渡すと倉庫の奥で話し声が聞こえた。よく耳を澄ませると、何やら電話で謝罪している様だ。
荒川が電話を終えたタイミングを見計らい、声をかけた。
「店長、何かあったんですか?」
荒川が宏章に気付くと、困った様子で答えた。
「今スナックジュリアから連絡あって、納品の種類も数も全然違うって言うんだよ。そっちは雄太が回ってたんだけど、あいつもう帰っちまったしなぁ。とりあえず俺今すぐ行ってくるから、お前は片付けして上がっていいぞ」
荒川はため息をつくと、いそいそと支度をし始めた。
「あ、じゃあ俺行きますよ。俺今日予定ないんで」
「え?でも……」
「今日クリスマスイブでしょ。奥さんとお子さん待ってるから、今日ぐらい早く帰ってあげて下さい。戻ったら戸締りして俺もすぐ帰るんで」
荒川は困惑するが、宏章はすでに出発する準備にとりかかっていた。
「悪いな、じゃあ任せるよ」
荒川は済まなそうに言うと、宏章を送り出した。
その頃、桜那は深夜バラエティの収録に入っていた。
現場に入ると、頭を仕事モードに切り替えて、いつも通り高い集中力で臨んだ。仕事に没頭していると幾分か気が紛れ、却って集中する事が出来た。
休憩中、ふと携帯に目を遣る。
宏章から連絡はなかった。
……昨日の事、謝りたいのに……連絡するのが怖い。
きっと嫌われた、こんな自分にはもう付き合いきれないだろう。電話したら最後、もう別れを切り出されるかも……そう思うと、電話をするのを躊躇った。
……ううん、むしろその方が宏章にとってはいいのかも。私と出会わなければ、もっと普通に幸せになれるはずなのに。
そんな事を考えていたら、呼吸が苦しくなり出した。桜那は慌てて鞄から薬を取り出し、水と一緒に流し込んだ。
なんとか収録を終えて、自宅へと戻る。
部屋に一人でいると寂しさが襲ってきて、世界中でたったひとりぼっちになったみたいだ。食欲もないし、お酒を飲む気にもなれない。体を温めようと、お湯をためてバスルームへ向かった。お気に入りのいつもの入浴剤を入れて、湯船に体を沈める。ピンクに染まったお湯を両手で掬い、ぼんやり眺めていると宏章の顔が浮かんだ。
「嫌じゃない!俺も桜那の事が好きだ!」
「俺は桜を見る度に、桜那の事思い出すんだろうな」
こんな自分を、まっすぐに好きだと言う笑顔の宏章。
桜那は堪えきれず、体をぎゅっと抱きしめて泣きじゃくった。
……宏章に会いたい!
桜那はバスルームから出て、急いで身支度を整えると、すうっと深く深呼吸してから携帯に手を伸ばした。
宏章は納品を終え、倉庫に戻った。
気を抜くとついボーっとしてしまい、何をするにも全く身が入らなかった。何やかやと後始末をして帰る頃には、時刻はもうすっかり22時を回っていた。
戸締りをして倉庫を出ると、ふーっと深いため息をついて、バイクに腰掛けた。一息ついてエンジンを掛けようとした時、携帯が鳴った。誰だ?とリュックから携帯を取り出し、画面を開いた。
……桜那からだ!
驚いて目を見開き、戸惑いから一瞬出るのを躊躇ったが、思わず電話を取ってしまった。
「はい……」
困惑気味に返事をすると、宏章はいよいよ別れを切り出される事を覚悟した。
険しい表情で桜那が話し出すのを待つが、しばらく沈黙が流れた。宏章はいよいよ耐えきれず、「……桜那?」と名前を呼ぶ。すると電話の向こうでグスッと鼻をすする音がした。泣いてる?と焦るが言葉が出てこない。
桜那もまた宏章の声を聞いた途端涙が溢れ出し、言葉を詰まらせた。
「宏章……」
言いたい事は沢山あるのに……、桜那は宏章の名前を呼ぶので精一杯だった。
「桜那、どうしたの?」
宏章は戸惑いながら尋ねるが、返事はなかった。しばしの沈黙の後に、ようやく桜那が口を開いた。
「宏章、会いたい……」
宏章は驚き、居ても立っても居られず「今どこ?家?」と尋ねると、桜那が微かな声で返事をした。
「すぐに行くから、ちょっと待ってて!」
宏章は急いでエンジンを掛けた。
バイクを走らせている間、宏章は昨日の出来事などすっかり忘れ無我夢中になっていた。桜那の事が心配で堪らなかったのだ。
いつもの駐車場にバイクを駐めて、マンションまでの短い道のりを駆けていく。
息を切らしてエレベーターに乗り込むと、壁に両手をついて深呼吸し、逸る気持ちを何とか落ち着かせた。
インターホンを鳴らす。
「開いてるから、上がって……」
いつになく弱々しい桜那の声。
「上がるよ」
そっと静かに声をかけ、リビングまで進んだ。広いリビングを見渡すと、ソファに突っ伏している桜那がいた。
「桜那……」
恐る恐る声をかけ、その肩に手を伸ばした瞬間、桜那が宏章の胸に飛び込んできた。
驚きのあまり、宏章は思わず腰を抜かしてその場に座り込んだ。しばらく動けずにいたが、桜那はお構いなしに泣きじゃくった。
「桜那、何かあったの?なんで泣いてるの?」
宏章が尋ねても、何も答えられずに桜那は泣き続けた。
「仕事で嫌な事でもあったの?」
宏章はまた尋ねるが、桜那はふるふると首を横に振り、腰に回したシャツを握る手にぎゅっと力を込めた。
宏章はどうしていいか分からず、困惑の表情を浮かべていたが、とりあえず桜那を宥めようとぎゅっと抱きしめた。
宏章の腕の中にすっぽりと収まり、弱々しく泣く桜那がいつも以上に華奢で小さく感じた。
ひとしきり泣いて、落ち着きを取り戻したのか、ようやく桜那が口を開いた。
「宏章、昨日はごめんね……、本気じゃないなんて嘘だよ。宏章の事が大好きなのに……」
「え?」
「昨日、酷いこと言って傷付けた……」
「ああ!」
宏章は思い出したと言わんばかりに声を出した。
実際、桜那の家に着く頃には昨日の出来事などすっかり忘れていたからだ。
「それで泣いてたの?」と尋ねると、桜那はすすり泣きながら「うん……」と小さく頷いた。
「なんだ、そんな事かぁ」
宏章は拍子抜けして、安堵から思わず笑みが溢れた。
「……そんな事って何?」
桜那は少しムッとした様子で顔を上げ、大きな目でじっと宏章を見つめた。
涙に濡れた長い睫毛が、朝露の様にきらりと光ってとても綺麗だ。
こんな状況でも、不覚にも見惚れてしまう自分に情けなさを感じつつも、慌てて「あ、いや違うんだ!俺はてっきり、また仕事で何かあったんじゃないかって心配だったから、何事もなくて安心したんだよ」とホッと一息つきながら答えた。
その表情を見た桜那が、照れた様にふっと首を横に振り、視線を逸らした。
その様子が愛おしくて、宏章は穏やかな笑みを浮かべた。
「確かに昨日はショックだったし、実際のところかなりへこんだけど、もう気にしてないから大丈夫だよ。それに、俺が桜那と釣り合ってないのは本当の事だし」
宏章は半ば自虐的に笑うと、桜那を宥めるように優しく抱きしめた。
桜那は目に涙をためながら「違うよ……」と呟く。
宏章が不思議そうにすると、桜那が声を震わせた。
「宏章と釣り合ってないのは私の方だよ……、こんな自分じゃなければ良かった……」
その目には涙が溢れ、静かに頬を伝った。
「桜那?」
まさかそんな返しが来ると思わず、宏章は桜那の顔を覗き込んだ。桜那の目からは涙がぽろぽろと溢れ出していた。
「俺はどんな桜那でも好きだよ」
宏章はそっと桜那を抱き寄せて囁いた。
「正直に言うと、複雑な気持ちがない訳じゃないけど……。それでも、今までの桜那が今の桜那でもあるだろ?俺はそれも含めて、今目の前にいる桜那が好きなんだ」
宏章がまっすぐな瞳で桜那に語りかけると、「それに、もともと俺は桜那のファンだった訳だし」と情けなさげに苦笑いした。
そんな宏章の様子を見て、やっと桜那が微笑んだ。
「昨日ね、宏章がライブの後、女の子と楽しそうにしてるのを見てちょっと悔しかったの」
宏章は驚いて、思わずえっ?と声を出した。
「宏章の方が、私の事追っかける立場だと思ってたのにっていう悔しさと、最近仕事で思う所があって、あんなに普通そうな女の子が心底羨ましくて……。なんか上手く言えないけど……、素直じゃなくてごめん」
桜那はやっと素直に気持ちを打ち明ける事が出来た。
宏章は桜那がやきもちを焼いていただけだと分かり、安心したのと同時にちゃんと自分を想ってくれていたのだと心から喜んだ。
宏章にとって桜那は未だ手の届かない存在で、いつもどこか自分に自信を持てずにいた。抱きしめていても、すり抜けていってしまいそうな不安を常に感じていたから。
「俺は今でも桜那の事、ずっと追っかけてるよ」
宏章はそう言って、桜那を強く抱きしめた。
桜那も宏章の首に腕を回すと、目を閉じてぎゅっとしがみついた。
ふとリビングの時計に視線を向ける。
時刻は23時半をとっくに過ぎて、もうすぐ日付を跨ごうとしていた。
「桜那、時間大丈夫?もうすぐ12時だけど、明日仕事じゃないの?」
宏章がそう言うと、桜那は驚いて顔を上げて目を見開いた。
あっ!と大きな声を上げ、「明日収録なのに泣いちゃった!目腫れちゃう!」と急いで立ち上がり、冷凍庫に向かいアイスノンを取り出した。
その様子を見て、いつもの桜那だと宏章は胸を撫で下ろした。
「じゃあ明日も早いだろうから、俺はこれで帰るよ」
宏章が静かに立ち上がると、桜那が寂しそうに「帰るの?」と呟いた。宏章はその表情に、胸がぎゅっと締め付けられた。
「……寝付くまで、そばにいてくれる?」
桜那が宏章のシャツの裾を掴み、頬を赤らめながら上目遣いで訴えかけた。
「分かったよ」
宏章は込み上げる愛おしさを堪えきれず、軽々と桜那を持ち上げてベッドまで運んだ。
桜那をベッドに優しく下ろし、ブランケットをそっと掛ける。桜那は瞼にアイスノンを当てて、枕元にあったシルクのアイマスクに手を伸ばした。
「そのままだと冷たくない?タオル持ってくるよ」
宏章は立ち上がり、脱衣所からタオルを持ってきてアイスノンに巻くと、そっと桜那の瞼に当てた。
甲斐甲斐しく動く宏章の様子を、静かに横目で眺めていたらまた泣きそうになってしまい、桜那はぐっと涙を堪えた。
宏章はベッドの横に片膝を立てて座り、右手で桜那の左手をぎゅっと握る。
「あったかい……」
「寝付くまで側にいるから、安心しておやすみ」
宏章は桜那へ優しく語りかけた。
「宏章、今日仕事帰りでしょ?疲れてるのにほんとにごめんね……」
桜那が悲しげに言うと、宏章は「気にすんなよ」と笑って、左手の人差し指でそっと桜那の頬に触れ、涙を掬う仕草をした。桜那は今にも泣き出しそうな笑顔で、ゆっくり瞼を閉じた。
瞬く間に寝落ちして、すうすうと静かな寝息を立てて眠るその顔をしばらく眺めながら、宏章は母からの電話を思い出して頭の中で反芻していた。
「お父さん、体調良くなくて……お店畳もうと思ってるの」
宏章はぐっと目を強く閉じて、ベッドに顔をうずめた。
小さくため息をつくと、顔を上げてもう一度桜那の顔を覗き込んだ。
「おやすみ」
耳元へ優しく語りかけ、アイスノンがずれない様にアイマスクの位置を整えると、手を握り返して桜那の手の甲にそっとキスをした。
宏章は静かに立ち上がり、電気を消して部屋を後にした。
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