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第7話:片耳の音楽
金曜の午後。
ユイは、音楽室の前の廊下に一人で立っていた。
カーディガンを羽織り、いつもよりも薄めの化粧。黒髪は結ばず、耳の後ろでふわりと流れている。
左耳にだけ、小さな銀色のイヤーカフが光っていた。
音楽室からは、誰かのピアノの音がもれてくる。
どこか不安定で、でもやさしい旋律。
「……この曲、聴いたことある」
そうつぶやいて、ユイはゆっくりと財布を開いた。
“まるいもの”は、今日もそこにいた。
表面には、五線譜と音符が描かれている。けれど、譜面はどこか途切れていて、左側だけが空白だった。
(片方だけ……?)
そのときだった。ふと耳にふれた風の感触と同時に――
ユイの右耳だけに、音楽がはっきりと流れ込んできた。
旋律は、誰かの記憶のように懐かしくて、心に引っかかる。
(……これ、わたしが昔、弾こうとして弾けなかった曲だ)
音楽室に入ると、誰もいなかった。
でもピアノの蓋は開いていて、鍵盤はまだわずかに揺れているように見えた。
ユイはそっと座り、右手だけで鍵盤をなぞる。
ド…レ…ソ…ファ…
右手の旋律だけ、確かに覚えていた。
けれど、左手のパートがまったく浮かばなかった。
(音が足りない。もう片方が、わたしにはない)
そのとき、財布の中の“まるいもの”がぽんと跳ねるように震えた。
模様が、左側の譜面へと広がっていく。
まるで、誰かが“空白を埋めてくれるように”。
左耳にふわりと風が吹いた。
そして、音がそろった。
静かな音楽室の中で、ひとときだけ、両耳から正しい旋律が流れ込んできた。
(この曲……もう、ひとりじゃなかったんだ)
演奏が終わると、“まるいもの”の譜面はまた無地に戻っていた。
でも、ユイの耳には、音楽がちゃんと残っていた。