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何も知らなかった。
『お母さん、私ねピアノ頑張っててね……それでね』
『忙しいの、後にして。それに、貴方勉強は?』
『え、え……頑張って……るけど』
『そう、それならいいわ』
何て冷たい母親なんだと思った。
(まあ、人のこと言えないけどな……)
怪物の腹の中は、気味の悪いほど静かで、真っ暗だった。一寸先すら見えない混沌が広がっている。こんな所にエトワールはいるのかと、今頃泣いているのではないかと気が気でなかった。
だが、先ほどより落ち着いているのは何故だろうか。ここには道など無く、そもそもに道を歩いているのかすら分からなかったが俺は兎に角前に進んだ。後ろに進んだところで意味が無いと思ったからだ。もしかすると、先ほどから同じ所を歩いているのかも知れないという気にもなったが。
そこで、暫く歩いていると、エトワールの……天馬巡だった頃の記憶が俺の前に現われたのだ。それは、幼い記憶から、中学生……そして高校までのだ。
俺は、彼女について何も知らなかったんだなと改めて分かった。
いや、彼女が何かを隠していることも、何か言いたげで、それでいて壁を作っていることも知っていた。それは、単なる人見知りではないことを。今の彼女になるまでに何があったのか、この混沌の中で見た。
彼女は、裕福ではあるが冷たい両親の元に生れた。
両親は彼女を放っておいて仕事に明け暮れていた。まるで産んだことが間違いだったように、いないもののように彼女を扱っていた。
そうして、彼女はそんな両親の自分への関心のなさに気がつきつつも、どうにか目を引こうとピアノや勉学に力を注いでいた。勿論勉学は、できる両親を見て始めたことで、また両親が頑張れと彼女に押しつけたものだった。
彼女は素直だった。
素直に言われたことをやっていた。それが自分の存在意義とでも言うように。でも、そうやってすり減らしながら頑張っている彼女の顔はやはり寂しそうだった。愛に飢えているようなそんな表情をしていた。
俺と彼女は近くて遠いなと思いつつ、彼女の記憶を見て言った。
両親が彼女に手を挙げたことはなかった。だが、彼女に降らせる言葉は全て氷のようなナイフのような鋭く冷たいものばかりで、だんだんと幼い巡の表情が固まっていった。そうして、キラキラと少しの希望を孕んでいた瞳はあるときぷつりとその輝きを失った。
頑張っていたピアノもやめてしまったらしい。
彼女はものに当たることはなかったし、人前では泣かなかったみたいで、学校では常に優等生であることを、優等生を演じていたようだった。
そうして、また彼女の記憶が流れ、今の彼女を作る原因、今の天馬巡になるきっかけとなった二次元、アニメや漫画に出会ったのだ。だが、それに出会ったことにより中学時代彼女は複数の生徒から虐めを受けるようになった。
彼女が人間不信になったのは、彼女が心を閉ざす原因の二つ目がコレだった。
人の多い所が苦手だ。と彼女は前に俺に云ってくれた。それは、きっと、自分に奇異の目を向けられているのではないかという不安に駆られるから、そういう理由だったのだと思う。
もし、中学時代何もなく、自分の趣味を理解してくれる友人に出会っていれば、また彼女は違った彼女になっていたのだろうと。
「俺は、何も知らなかった。彼女がきくなといったからきっとそれに甘えていたんだろう」
彼女が聞くなと言ったから聞かなかった。それが彼女のためになると思っていた。
でもきっと巡は自分の事を知ってもらいたかったんじゃないかと俺は思っている。はき出せずにいた過去を、一人でずっと抱えていた。
二次元に没頭する理由もこれではっきりした。
俺が、あの日、自分の感情を優先しチケットを破ってしまったこと。彼女が怒った理由も。彼女にとってあれは支えだったのだと。ただ好き。というだけではなく、自分を肯定してくれるのが二次元だったのだろう。
俺には到底理解できなかった。あの時は。
「今なら、少しだけ分かる気がする。歩み寄って、彼女の話をゆっくり聞きたい」
俺は逃げてきたんだろうな。
何も言わず、彼女が嫌だというなら何もしない。
もしかしたら怖かったのかも知れない。恋人であるから、それでいい。それだけで十分だと自分に言い聞かせていた。
本当はもっと彼女のことが知りたかった。
俺が彼女に惹かれたのは――――
『――――、――――!』
コポコポと水の音がした。くぐもった水の音の中で、誰かが叫んでいる声がふと聞え俺はその声を音を耳で必死に拾った。
「俺を呼んでいるのか?」
俺は、その場に手をついて、音が自分のしたから聞えているのだと察した。足が付ける混沌の床の下に誰かがいると。
その誰かは、聞かなくても誰か分かった。
「巡……っ」
「×××ッ!」
「ッ!」
俺は、無意識のうちに腰に下げていた剣を抜きその床に剣を突き立てた。
ピキッという硝子にヒビが入るような音が響き、床からドクドクと黒い水があふれ出した。俺は、僅かに出来たその隙間を足で広げ床の下へと潜った。
やはり、床の下は水だった。それも、どろりと身体にまとわりつくような粘着質なもの。
下へ行くにつれて、その粘りは身体にかかる重力は増していき、息が苦しくなった。だが、この下にいる。さらに下に。
俺には何故か確信があったこの下に行けば巡にエトワールに会えると。
(息苦しいな……だが)
足に重しでもついているのかと言うぐらい、俺の身体は下へ下へと落ちていく。
そうして、暗闇の中にきらりと光るものを見つけた。
「エトワール!」
口の端からこぽぽと酸素が抜けていき、俺は肺に水が入るのを感じながら、その光へと手を伸ばした。
光っていたものは彼女の銀色の髪だった。それが、先ほど開けた穴から差す光を反射しているようだった。
光などないと思っていたが、どこからともなく仄かな蛍のような光が水の中に差し込んできた。
「エトワール!」
「……りー、す」
俺が彼女の名前を叫べば、彼女はその重たく閉じていた眼を開き、俺の方を見た。そうして、目を見開いて、顔を歪めた。それは、歓喜に満ちた表情で、俺はさらに彼女に手を伸ばした。
先ほど届かなかった手。
今度こそ、彼女を助けると。
「手を伸ばせ、エトワール!」
暗闇の中でも彼女の表情は姿ははっきりと見えた。
だからこそ、俺は彼女を見失うわけにはいかないと必死に手を伸ばしたのだ。彼女に伸びた手は、俺には伸びてこなかった。しかし、彼女にまとわりついた無数の黒い手は彼女の身体を締め付けるようにして絡み始めたのだ。
「いッ」
エトワールが苦痛に顔を歪め、手足をばたつかせながら、俺に手を伸ばそうとしていた。
俺はもう少し下へ降りようと水をかき分けるが、何故だかこれ以上はいけないようで、ゴンと俺とエトワールの間に出来た透明な壁のようなものに激突した。
「また、俺とエトワールを!」
俺は、握っていた剣でその透明な壁に穴を開けようとするが剣はびくともその壁に穴を開けることが出来なかった。
そうしている内に、エトワールの身体は手に呑み込まれていき、さらには俺の身体にまで伸びてきていた。
「リース、大丈夫だから、もう良いからッ!」
「お前を助けに来たんだ! お前が苦しんでいるとこを見たくない!」
そう俺が言えば、エトワールはぎゅっと唇を噛み締めて涙を流した。
「遥輝!」
彼女は、俺の本来の名前を呼んで手を伸ばした。
「大丈夫だ、俺が助けてやる!」
俺の身体にもエトワールの身体にも無数の手が絡みつき締め付けてきた。骨がきしむような音が自分の耳にも聞こえ、僅かな酸素も口の端から出て行く。
それでも、俺は諦めず透明な壁を押すように手を伸ばし、彼女の名前を叫んだ。
そうだ、助けてやる。助けたいんだ。
お前が、俺を引っ張り出してくれたから――――!