テラーノベル
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いつもより遅い時間に、ようやく将臣が帰宅した。
馬車から降りた将臣は、疲れを見せまいと背筋を伸ばしたまま玄関の戸を開けた。
薄暗い廊下の奥から、ぱたぱたと小さな足音が聞こえた。
その音だけで、固く強張っていた胸がわずかに弾む。
「将臣様、おかえりなさい」
灯りの下に立つ凪が、野に咲く菫のように微笑んでいた。
その笑顔を見た瞬間、張り詰めていた身体からふっと力が抜ける。
(……帰ってきた。私の『家』に)
「遅くまで待たなくていいと言ったろう。先に休みなさい」
そう言いながらも、口元は自然と緩んでいた。
診療鞄を受け取った凪は、じっと将臣の顔を見つめる。
「……どうした?」
軍帽を脱ぎながら尋ねると、凪は少し眉を寄せた。
「お顔色が……あまりよろしくありません」
「……気のせいだ。少し眠れば大丈夫だろう」
そう答えて歩き出す背中を、凪は静かに見送った。
軽い夜食を終えると、凪が湯呑みを両手で差し出した。
いつもの緑茶とは違う、ほのかに甘い香りが漂う。つい、鼻先を近づけた。
「この茶は?」
「棗と陳皮、それに少しだけ生姜を合わせました。疲れが抜けやすくなりますので」
将臣は一口含む。
「……薬草茶にしては、飲みやすいな」
じんわりと胸に染み渡る温かさに、思わず口元が緩む。
凪も照れくさそうに笑った。
「毎日飲める味でないと、意味がありませんから」
将臣はもう一口、静かに口へ運ぶ。
「そういうところが、お前らしいな」
自分のためだけに考えられた薬草茶。不思議と胸の奥が少し軽くなった。
(まだ、効くはずもないのに)
静かな笑みを浮かべて湯呑みを卓へ戻すと、隣で満たされたように微笑む凪が視界に入った。ほっと緩んでいた胸が、どくんと強く鼓動する。
(──凪に、触れたい)
反射的に手が伸びそうになった。
(……っ、私には、まだその資格はない!)
胸の奥にある鎖が引っかかり、その指先は途中で止まると、膝の上で静かに拳を結んだ。
将臣は一呼吸置き、努めて平静な声を作る。
「寝る前に、明日の往診の準備をする。凪は先に休みなさい」
将臣は立ち上がり、診療鞄を開いて中身を確かめ始めた。
「お疲れなのに……明日も往診へ?」
「いつものことだ。患者が待っている」
(そんなに疲れているのに……どうして、そこまで)
凪はしばらく将臣を見つめていた。やがて小さく息をつく。
(将臣様を支えることが、今の私にできること……)
凪は立ち上がった。
「私も薬を持って参ります」
「ああ。助かる」
将臣の声はどこまでも穏やかだった。
凪も部屋へと戻り、薬草を風呂敷に包んだ。
すると、結丸が足元で手拭いを引っ張り出し、その上にゴロンと寝そべった。見慣れない古びた手拭いに、凪は首を傾げる。
「結丸。それ、どこから持ってきたの?」
凪が手拭いへそっと指を触れた、その瞬間だった。
突如として見知らぬ映像が脳裏へ直接流れ込んできた。
一人の少年が、ぐったりと動かない白い子猫を必死に胸に抱きしめていた。その子猫を包んでいるのが、この手拭いだ。
『父上! お願いです、この子を助けてあげてください……っ!』
涙ながらに懇願する少年が対峙しているのは──威厳に満ちた、憲一。
なら、この震えている少年は……幼い頃の将臣様……⁉︎
『将臣。その猫はすでに衰弱しておる。病がうつる前に捨ててきなさい』
冷酷な一言に、将臣は唇を血が出るほど噛み締め、悔しそうに父を見上げていた。
そして視界が歪み、周囲が暗転する。
そこは、母屋の端にある古い井戸の陰。
夜の闇に紛れて将臣が、地に横たわる子猫のもとへ駆け寄っていた。恐る恐る屈み込み、子猫にそっと触れる。
『冷たいっ……』
小さく絶望の声を漏らすと、将臣は小さく丸まり、膝に顔をうずめた。
そして、声を殺してしゃくりあげて泣いた。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、冷たくなった子猫を見つめながら、ぽつりと呟いた。
『もう……二度とっ、見捨てたくない……っ!』
「凪」
「あっ……!」
はっと我に返ると、凪の瞳からはボロボロと溢れ出た涙が止まらなくなっていた。悟られまいと振り返ることもできず、慌てて袖で涙を拭う。
「……な、なんでしょう」
「湿布は少し多めに持っていこう。きっとまた必要になるだろう」
「ええ。わかりました。準備いたしますね」
将臣は、部屋へと戻っていた。
その気配を感じながら、凪はそっと振り返る。
もう二度と見捨てたくない──
疲れた身体でも、人のために動く理由。
(これが、将臣様の原点だったのね……)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「みゃん」
結丸が短く鳴いた。
凪はその身体を包むように抱き寄せる。
「だから結丸も、助けてもらえたのね」
どれほど疲れていても、人のために動く。
休日さえ、誰かを救うために使う。
そんな人だから。
凪は込み上げる想いを胸の奥へそっとしまい込んだ。
(あの人は、誰も見捨てない)
(それなら私も、あの人を精一杯お支えしたい)
腕の中で温かな体温を伝える結丸を抱きながら、凪は静かに決意を固めた。
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