テラーノベル
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静かな教室で、橋野先輩は俺の隣に座って、時折背中をさすってくれていた。結局、その日はこの第二校舎の教室で過ごすことになった。先輩は、俺が少しでも楽になるようにと、毛布をもう一枚持ってきてくれたり、床に段ボールを敷いて簡易的な寝床を作ってくれたりした。その優しさが、俺の心を温めた。夜になり、先輩は「俺はここで見張ってるから、ゆっくり休め」と言ってくれた。俺は先輩の言葉に甘えて、目を閉じた。昼間の吐き気と腹痛で体力は限界だったから、すぐに眠りに落ちるかと思った。
でも、一度落ち着いたはずの胃のむかつきが、再び込み上げてきた。昼間の保健室での出来事が、フラッシュバックする。田中先生の冷たい言葉、そして、胃を押さえつけられた時の不快感。それらが頭の中でぐるぐると回り、吐き気がどんどんひどくなっていく。
橋野先輩を起こさないように、そっと体を起こした。ゆっくりと、教室の隅にある非常階段のドアを開け、外のトイレに向かう。誰もいない夜の学校のトイレは、昼間とは違う不気味な静けさに包まれていた。個室に駆け込み、便器に顔を近づける。
「うっ……! げほっ……!」
昼間よりもひどい勢いで、胃の中のものが逆流してきた。何度も、何度も、胃液を吐き出す。苦しさに、生理的な涙が止まらない。
その時、背後から優しい手が伸びてきた。
「うり……」
橋野先輩だった。いつの間にか、俺の後ろに立っていたのだ。先輩は何も言わず、ただ、俺の背中をゆっくりとさすってくれた。温かい手のひらが、俺の震える背中にじんわりと熱を伝える。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ、うぇっ、ごめんなさ……い……」
吐き気が収まらないまま、俺は謝罪の言葉を繰り返した。迷惑をかけていること、情けない姿を見せてしまっていること、全てが申し訳なくて、呼吸が乱れ始めた。
「ごめんなさい……っ、ひゅっ……ごめん、なさい……っ、はぁ、はぁ……」
謝罪の言葉と共に、呼吸がどんどん速くなる。息が吸えない。胸が苦しい。酸素が足りない。体が震えだし、手足の感覚が麻痺していくような錯覚に陥った。過呼吸だ。
「うり、落ち着け。ゆっくり息を吐け」
橋野先輩の声が、遠くから聞こえる。先輩は俺の体を抱きしめるように支え、背中を大きくさすってくれた。先輩の温かい胸に顔をうずめると、ほんの少しだけ、呼吸が楽になるような気がした。
背中をさする橋野先輩の温かい手に、俺は身を委ねていた。苦しかった呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。過呼吸で上手く吸えなかった空気が、ようやく肺の奥まで届く感覚があった。
「うり、大丈夫か? ゆっくり、ゆっくりでいいから」
先輩の声が、耳元で優しく響く。俺の頭を胸に抱え込み、大きな手で俺の髪をそっと撫でてくれる。その一連の動作が、あまりにも自然で、そして温かくて、俺の心臓はドクンと大きく鳴った。
今まで、誰にも見せられなかった俺の弱い部分を、先輩は全て受け止めてくれた。保健室で先生たちに心ない言葉を浴びせられた時も、俺を庇って怒ってくれた。そして、夜中に一人で苦しんでいた俺を見つけて、何も言わずにそばにいてくれた。
こんなにも優しくて、頼りになる人がいるんだ。
ふと、昼間に先輩にお姫様抱っこされた時のことを思い出した。あの時も、少しドキッとしたけれど、その時はただ驚きと恥ずかしさでいっぱいだった。でも、今は違う。先輩の温かい胸の中で、俺は確かに感じていた。この人に惹かれている、と。
今まで、恋愛なんて考えたこともなかった。過敏性腸症候群のせいで、いつお腹が痛くなるか分からない不安が常にあったから、誰かと深く関わることに臆病だった。でも、先輩はそんな俺を、何の偏見もなく受け入れてくれた。
先輩のTシャツの胸元が、俺の吐いたもので汚れてしまっている。それなのに、先輩は嫌な顔一つせず、ただ俺を抱きしめてくれている。
「先輩……ごめんなさい……汚しちゃって……」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「気にするな。それより、お前が大丈夫なのが一番だから」
先輩は俺の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。その温かい手に、俺の心は完全に落ちた。
この人が好きだ。
この気持ちは、きっと、今まで感じたことのない、特別で大切なものだ。まだ、この気持ちをどうしたらいいのか分からないけれど、今はただ、この温かい腕の中にいたいと強く思った。
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