「常務。食事にほとんど手をつけませんでしたね」
本社へと戻る車の中で、魚井玲奈は言った。
「いや、それなりには食べたはずだが」
ビジネスマン吾妻勇信は言った。
「今日のお店ですが、個人的にまた行ってみたいと思ってるんです。ただすごく高価なので、年に一度くらいしか行けませんけど……。ただ自分へのご褒美としては最高だなって思って」
「そうしたいならそうすればいい」
ビジネスマンは窓からの景色を見ていた。頭の中は兄の事件のことでいっぱいだった。
もちろん魚井玲奈は勇信の心理を理解していたが、それでもかまわず雑談を続けた。ビジネスマンは心ここにあらずで、空返事ばかりを繰り返した。
時々魚井玲奈は感じることがある。
自分と吾妻勇信とは、同じ場所にいながら別の場所にいる関係だと。完全なる甲と乙。支配階級と労働者階級。何気ない雑談のときに、よく価値観の違いを感じた。
「ところで堀口課長のことだが。悪くない人物だな」
「はい?」
「穏やかで冷静で、そして何よりもあの目。人生を懸命に生きてきた人間の目をしている。堀口さんのような人物が多くいるほど、吾妻グループの未来は明るいだろう」
「常務、すばらしい見解です。堀口課長は堅実さと誠実さに定評があるお方です。残念なことに交通事故で家族を亡くし、その悲しみを背負って懸命に働いてらっしゃるのでしょう」
「家族の誰を亡くした?」
勇信はいささか驚いた様子で魚井玲奈を見つめた。
父が植物状態であり、先日兄を亡くした勇信にとっては、嫌でも気になる話題だった。
「奥さまと娘さんを」
「……ふたり? それは本当にかわいそうだな」
「飲酒運転による交通事故だったそうです」
魚井玲奈は声のトーンを下げて、慎重に言った。
「会社は十分な補償をしてやったのか?」
「十分かどうかはわかりませんが、社則に従って補償はされたはずです」
「そうか。非常に遺憾なことだ」
車は赤信号で停まり、しばらくしてから発進した。
ビジネスマンは長い間黙ったまま携帯電話を確認していた。車が再び信号で停まる、思い出したように言った。
「ああ、魚井秘書。さっき今日の和食のことを言ってたようだが。なぜ一年に一度しか行かないんだ?」
「どういう意味でしょうか」
「いや、あの和定食なら、君の給与でも容易に行ける値段じゃないか。それなのに一年に一度というのはまた奇妙な」
「3万円ですよ?」
「わかっているが?」
魚井玲奈は静かにため息をついた。
「収入と支出というものは、うまく調和がとれないといけないものなんですよ、常務。例えば毎月3万円の食事をすれば、月3万円の給与をカットされると同じです。毎月あそこで食事をすれば、5年後には車を買えます」
「企業経営も同じではあるな。コストを削減せざるを得ないという点で」
「まったく違いますよ。今我慢することで、将来の夢が見えるのですから」
「同じことだろう。コスト削減はより大きな利益のための礎だ。そして利益はグループ全体の幸福、つまり未来を創ることだ……。いや、そんなことはどうでもいい。未来の夢ってなんだ? まさか魚井玲奈――」
「会社を辞めるつもりはありませんのでご心配なく」
「そうか」
ビジネスマンは魚井玲奈に気づかれないよう安堵のため息をついた。
「もしかして現在の待遇に不満などあるか? あるなら言ってくれ。改善の余地があればどうにかしよう」
「いいえ。私は今の仕事に満足しています。ただ私は労働者ですので給料がなくては生活ができません。3万円のコース料理をしょっちゅう食べるなんて、絶対にやってはいけないんです」
「ではこうしよう。また食べたくなったら気兼ねなく俺に言ってくれ」
「そんなことはあり得ませんが、お気持ちはありがたく受け取りました。ですが、なぜ急にそんなことを――」
「実はちょっと興味があってな」
「興味といいますと?」
「どう表現すべきか悩むところだが、一般家庭の生活やその他いろいろと知りたくてな。ごく普通の経済観念や、広く浸透した通念や常識などについて学ぶ必要があると感じているところだ」
「常務。本心ですか」
「ああ、本心だ。国の経済活動の主体である一般階級の平均的な経済動向に着目することは、我々経営陣にとっても――」
「社に戻ったらすぐに専門家を招聘いたします。面談はいつがよろしいですか」
「いや、大事にはしたくないんだ。この件については魚井秘書にやってもらいたい」
「私ですか? 私は大学でバイオテクノロジーを専攻したので、あまりそちらの分野には――」
「わかる範囲で十分だ。単に普通の人々が何を食べ、いくらなら高価だと感じ、どこで主な生活必需品を買っているのか。そんなようなことだ」
魚井玲奈が両目をしばたたかせたそのとき、ビジネスマン勇信の携帯電話が鳴った。
「はい。吾妻です」
――おい、おまえまた何をはじめようとしてるんだ! 玲奈にそんなことさせたらマズいに決まってるだろ!? 俺たちの正体に気づかれたらどうするつもりだ。
ジョーが電話越しに怒りをぶつけた。
「ええ、たしかにそうですね」
ビジネスマンは仕事の電話のように返事した。
――二度とシナリオにないことはやるなよ。今すぐ撤回するんだ。
「承知しました」
ビジネスマンは電話を切ると、窓の向こうに見える古びた定食屋を指差した。
「魚井秘書が言ったように、実は二日酔いが残っていてさっきあまり食べられなかったんだ。あそこの定食屋に一緒に行ってもらえるか。普通の焼き魚とみそ汁を食べてみたい」
魚井玲奈が驚いた表情でビジネスマンを覗き見た。
「常務。さっきもそうでしたが、本気でおっしゃってますか」
「一般大衆の物価を知るには、直接体験するのが一番だろう。運転手さん、あそこの定食屋に車を停めてください」
車は停車し、ビジネスマンと魚井玲奈は降りた。
再び携帯電話が鳴った。別の勇信からの着信であるのを確認したビジネスマンは、そのまま電話をポケットに入れた。
「受けなくて大丈夫なのですか」
「気にしなくていい。単なる騒音だ」
着信が切れると、すぐにメッセージが入った。
キャプテンとジョーがそれぞれ怒りをぶちまけていた。
[この腐れ勇信が! 俺たちのシナリオを何だと思ってやがる!]
[貴様は二度と出社させないからな。そのつもりでいろ!]
ビジネスマンはすぐに返信した。
[現場でしか知ることのできない雰囲気ってものがある。少し黙ってくれ]
店に立ち入ると、中は多くの客で溢れかえっていた。
煙が立ち込め賑わう店内の様子は、ビジネスマンにとってほぼ祭りに等しかった。
「常務。少し人が多すぎるようですね。ここからだとプレジデントホテルが近いですが、そちらでお食事なさいますか」
ビジネスマンのたじろぎ具合を確認した魚井玲奈が言った。
「……いや。まさに俺が知りたかった現実がここにある」
「ねぇ、あんたたち! そこに立ってないで扉閉めてちょうだい」
恰幅のいい女将が大声で叫んだ。
「あの女主人……俺を誰だと思ってるんだ」
ビジネスマンが怒りつぶやいた。
「場所を移動なさいますか」
「いや、多少の屈辱こそ、知識を得るための土台となるだろう。入ろう」
たじろぎながらも席についたビジネスマンは、手書きの難解なメニューをぼんやりと見つめた。
「最初は困惑するでしょうがすぐに慣れますよ。これだけお客さんが多いのは、人気店の証ですから。大衆食堂デビューにしては運がいいほうだと思ってください」
「いったい何を食べればいいんだ」
「私は満腹なので常務がお決めください」
「ふむ、実を言うと俺もなかなかに満腹でな。ここでの食事は諦めなければならなそうだ」
「さっき焼き魚とおみそ汁とおっしゃいましたが……」
「大衆食堂の構造とフォーマットはだいたい理解できた。もうここを出るとしよう。キャンセル料をカードで支払ってくる」
ビジネスマンがカードをもってカウンターへ向かうのを、魚井玲奈が必死に食い止めた。
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