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#お仕事
#秘密
「晩御飯の支度をしている場合ではないわね」
私はスマートフォンをテーブルに戻し、あえて画面を伏せた。
手を念入りに洗い、再びポテトマッシャーを握る。
冷ややかな金属が、調理で火照った掌の熱を、貪欲に、暴力的に奪っていく。
一度、深く肺の奥まで酸素を流し込み、マッシャーをボウルの縁に打ち付けた。
――カンッ。
高く硬質な音が響き、淀んだ空気が物理的に揺らぐ。
茹で上がった芋が潰れる、鈍い音。
その単純で、無慈悲なまでに生産的な反復作業だけが、私を正気の世界に繋ぎ止める唯一の細い鎖だった。
外の世界では何かが「攫われ」、秩序が剥ぎ取られようとしている。
それなのに私は、ジャガイモの粘度に全神経を注いでいる。
この乖離こそが、私が私であるための、最後の防衛線だった。
「あなたは、どんな時でも不気味なほど堂々としている」
かつて、私の元を去っていった誰かが、去り際に吐き捨てた言葉を思い出す。
だが、それは致命的な誤解だ。
私はただ、適切なタイミングでパニックを起こす作法を知らないだけなのだ。
あるいは、助けを求めるための共通言語を、生まれつき持ち合わせていないだけなのだ。
私はエプロンを外し、シンクの隅に無造作に丸めて置いた。
ふと、脳裏の断層から古い演芸番組の光景がせり上がってくる。
色あせたブラウン管の向こう、座布団を両手に抱えて無表情に舞台を横切る、赤い着物の運び役。
山田くんと呼ばれていたあの人の、一切の私情を排した機械的な動作は、今の私の日常よりも遥かに深く、冷酷な現実に根ざしているように思えた。
彼は何が起きても、誰が滑っても、ただ座布団を運び、あるいは奪う。
その役割の純粋さに、私は今、猛烈な羨望を感じていた。
「ジャガイモはどうする?」
あまりに生活感に満ちた問いが、私を思考の淵から引き戻す。
世界が反転し、昨日までの法が通用しなくなるかもしれない瞬間に、ボウルの中のジャガイモを冷蔵庫に入れるかラップをかけるかで悩んでいる自分が、滑稽だった。
「……悩んでいる場合ではないわね」
私は自分に言い聞かせるように呟き、ボウルを抱えて冷蔵庫へと歩み寄った。
私の冷蔵庫は、容量三百三十リットル。
私の身長とほぼ同じ高さを持つ、装飾を削ぎ落とした白い箱だ。
扉を開けると、そこには使い古された私の人生の断片が、静謐な冷気の中で整然と並んでいた。
飲みかけの低脂肪牛乳、特売のラベルが貼られた醤油、そして三パック一組の木綿豆腐。
私は、絹ごし豆腐のあの頼りなさがどうしても信じられない。
箸で掴んだ瞬間に自重で形を失い、崩れていくような軟弱な存在を、私は食べ物として認めることができないのだ。
歯ごたえがあり、芯の通った木綿豆腐こそが、私の倫理観に合致していた。
そして、その木綿豆腐の隣、冷気が最も溜まる特等席に、それは鎮座していた。
イングラムM11。アメリカ製のサブマシンガンだ。
鈍い光を放つ黒い金属の塊が、白い庫内で異様な存在感を放っている。
初めて手に入れた時はその鉄の重さに息を呑んだが、今では野菜室のキャベツや奥に追いやられた豆板醤と同じくらい、見慣れた風景の一部となっていた。
野菜室には、新鮮な葉物野菜の代わりに、オイルでコーティングされた予備の弾倉が三つ。
かつては手榴弾も二発、卵ケースの隣に常備していた。
けれど、数ヶ月前に近所で冷蔵庫が爆発し、住人の主婦が行方不明になったというニュースを聞いて以来、怖くなって裏山に埋めた。
私なりに、市民としての安全と公衆道徳には人一倍気を遣っているつもりだ。
冷蔵庫からマシンガンを取り出す。
芯まで冷え切った金属の重みが、手のひらを通して逆説的に私の焦燥を鎮めてくれた。
カチリ、と硬質な音を立てて弾倉を挿入する。
ボルトを引き、初弾を薬室へ送り込む。
指先に残る金属オイルの匂いが、夕食の準備から「戦い」への切り替えを告げる。